凍れる雪の狭間で 03
重厚な、造り。
一見して、この館が巨額を投じて築かれたのだということ、輝は理解した。なぜなら、重厚な、全身にのしかからんばかりの、柱が居列しているのだ。
こないな重っ苦しい雰囲気はかなわんな。
輝は内心ぼやきながら、先を進む女性の背中を見つめる。
流暢な英語で輝を招き入れた、女性。未だ幼くも見えるその容姿は、おそらく麦子と同年代だろう。しかし、きりりと伸びた背筋が、何やら近づきがたい雰囲気を醸し出していた。
そんなことを考えていた輝は、女性が立ち止まったことに気づくのに数瞬かかった。
「……おっと」
「どうぞ、こちらに。すぐにワイリエ・マリエラをお呼びします」
指し示されたのは、赤々と焔が踊る暖炉の前。大きな安楽椅子と、おおぶりなソファ。
どちらに座るべきなのか。輝は女性に聞こうと顔を上げたが……既に姿はない。輝は内心で愚痴を繰り返しながら、とりあえずと暖炉脇に立つことにした。
赤々と燃える、暖炉の焔。頬にその暖かさを受けながら、輝はふと思った。
そう言えば。
執事は、アルディシンには二人の魔女が居る、と言っていた。
ワイリエ、つまり白い魔女。
もう一人……紅い魔女について、執事は言っていたか?
「……聞いてないなぁ」
「さて、何を言わねばならなかったかえ?」
静かな、しかし広く暗い部屋に老女の声が響いて、輝はすぐに我に返った。
おかしい、この俺が気配に気づかなかった?
輝が入ってきたその入り口で、とても小柄な老女が立っていた。
アルディシンに来て何度か見た、北欧風の民族衣装。
暖かく身体を覆う、純白の毛皮。
かつては美貌と称えられたであろうことは、齢を経た容姿の中でもわずかばかりの薫りを漂わせていた。
「お待たせ……したかの?」
「いえいえ」
「大公殿下より、話は伺おうておる。どうぞ、おかけなされ」
枯れ木のように成れ果てた指には、輝が内心だけだが熱望するトル・ビフィリアの指輪が燦然と輝いていて、数瞬それに目を奪われた輝だった。老女の促しで用意されていたソファに浅く腰掛けて、輝は口を開いた。
「どうして、私がここに来ると?」
「さっき言うたであろ、大公殿下より伺おうたと」
「……」
輝の沈黙に、老女はようやく輝の疑問を理解して、
「今朝早うに使者が着いた。電話など便利なものはない故に、トナカイ橇を駆けて参った使者での」
「そう……でしたか」
「自己紹介が遅れましたな。ワイリエ・マリエラ・マフォントス。マリエラとお呼びくだされ。そこに控えしは」
と、傍らに立った、先ほど輝を招き入れた少女に微笑み返って、老女は言う。
「リサ・フォトナーじゃ。代々、ワイリエの身の回りを見てくれております。同席をお許し願いたいが……」
「結構ですよ」
輝の言葉に、陶磁器のように凍り着いた表情の少女は無言のまま、深々と頭を下げた。
「……では、本題に入りましょうかの」
「はい」
「2週間ほど前、でしたかの。いつもこの時期に、来年の公国の行く末を占い、公に報告申し上げるのが、ワイリエとしての勤めとなっておりましての……何も変わらない、いつもの占いの儀式でしたが、出た結果は明らかに、おかしいものでしての」
「おかしい?」
「『宮殿の西に、異変が起こる。常にあらざる者と縁を結ぶ者、在りき』と出ました故に、少し不安を感じましてのぉ……かつて同じような不安を感じて、公に伝えようとした時には既に遅かったことがありました。為に、少し先走ったように報告申し上げたが」
「と……おっしゃられると」
「ハレシュン伯爵と、ルクル姫の婚約についてはご存じか?」
「ルクル姫?」
突然現れた固有名詞に、しかし輝は頭中の図書館をフル活動で答えを導き出した。
「ルクレースイ公女のことですか?」
「そのとおり。実はハレシュン伯爵には、ルクル姫とは違って、生まれついての許嫁がおられた。ハレシュン伯爵家に次ぐ、アルディシン第3の名家、ミオ家の姫君で……」
と、ワイリエは救いを求めて、侍女の姿を探した。すかさず氷のように感情の見えない声が帰ってくる。
「マトリエナ姫、4代前のアルディシン大公マノシン3世大公殿下の第2公女が降嫁され、てずからお育てになられた孫姫と聞いております」
「そうであった、マータ姫と呼ばれておったの。御歳二十歳になったばかりの、健やかなる姫君と聞いていたが、半年ほど前であったか、突然薨られ……病死ということだったが、その頃微かに悪しき気配を感じたことはあった……もしや、と思うこともあるが……」
「……」
マリエラが瞠目したまま、部屋には重苦しい沈黙がのしかかる。そして、輝は口を開いた。
「マトリエナ姫が亡くなられてすぐに、ハレシュン伯爵はルクレースイ公女と婚約された、と」
「何かある、とアルディシンではもっぱらの噂であった。したが、あくまで噂にすぎん。それ以上の証拠は何もない。故に、大公殿下に報告も避けた……したが、宮殿の西にはハレシュン伯爵の邸宅があります……かつてマータ姫が薨去された時に感じた禍々しき気配が、一層密度を増し、強大になったかのような……。あれは、間違いなく、悪魔のなせる技。我らのようなアルディシンの民のなせる技ではない」
「……ハレシュン伯爵邸で、悪魔と契約を結んだ者がいる、とあなたは結論づけられたと、いうことですね」
「そのとおり」
マリエラに変わって沈黙してしまった輝を見遣って、マリエラは苦笑する。
「先のことの際に動いておれば、このようなことにならなかったのかもしれん。したが、公家の権力争いに、我らのような市井の者が加わるのは、あまりに危険と思うておったが、あの気配を見て、考えが変わった。あれは公家の争いだけでは片づけられぬ、アルディシンの危機と感じた」
「……マータ姫の一件、大公殿下には」
「このたびのことと併せて、お伝えした」
「そう、ですか」
しばらくの沈黙の中、暖炉の中で薪の爆ぜる音が微かに響いたのち、輝が声を上げた。
「分かりました……一度、宮殿に戻ります。その上で、今後の対策を考えましょう」
「そうですか。気を付けられよ、我らのような市井の者では、あのような者、手が出せぬ。申し訳ないの、遠路はるばる足を運んでいただいて」
「いえ……これが仕事ですから」
輝は優雅極まりない仕草で椅子から立ち上がり、軽く一礼する。
「禍根のなきよう、納めましょう」
「リサに案内させましょう」
その一言で、相も変わらず冷たい表情のまま、少女は部屋の入り口に足音も立てずに進んだ。
マリエラに背を向けようとした、その瞬間。
輝は思いだした。
『アルディシンには、2人の魔女がいます』
そうだ、公家の執事は魔女が『2人』と言った。白い魔女と、紅い魔女。だが、執事はマリエラが白い魔女である『ワイリエ』だとしか告げなかった。
では、紅い魔女は?
その者は、今度の一件、何も気づかなかったのか?
関係していない、となぜ断言できる?
多数の興味、少数の義務を含んで、輝は声を上げた。
「ワイリエ・マリエラ。一つお伺いしたいことが」
「何かな?」
「ここへ来る前、アルディシンには二人の魔女がいると聞きました。一人はワイリエであるあなただと。ではもう一人の『紅い魔女』はこのたびの一件、気づかなかったのでしょうか?」
瞬間。
入り口まで案内しようと背中を向けていたリサの筋肉がこわばったかのように、そして振り返ろうとぎごちない動きが輝の視界に入った。
やばっ、禁句やったか? まずった。
しかし一方マリエラは、今までとなんら変わらず、否、微笑みさえ浮かべて、
「レタニエか……久しく聞かぬ名を、聞いたの」
「……レタニエ?」
「『紅い魔女』のことを、レタニエと呼ぶ。白い魔女をワイリエと呼ぶと同じこと。だが、レタニエは感じたのであろうか? こたびのことを。レタニエ自体が未だ続く血筋であるかどうかも、私たちは知らない故に」
「え?」
思いもしなかった言葉に、輝は数回瞬きをする。
「昔語りになりますな。神楽坂どの、よろしいかな? 出来ればお座りなされよ。お聞きになりたければ、語りましょうぞ」
小さな、小さな国。それがアルディシンである。
否、最初は国ですらなかった。周辺地域が国となり、王政をしき、覇権を競う中で、体面を整え、覇権から身を守るために小さな部族が結集し、国となった。
しかし、覇権を争う周辺国は、貧しいばかりで何の産業も持たないアルディシンに食指を動かすことはなく。
平凡に、いや、平凡すぎて何一つなく、小国アルディシンは、平和という名の微睡みを連綿と続けていた。
一方でアルディシンは太古からの自然崇拝が残る地でもある。古代にドルイド教、中世にはキリスト教が入り、少しずつ形を変えつつも、しかし自然崇拝は2人の魔女という存在に象徴されるようになった。アルディシンの民は魔女を敬い、同時に畏れた。
白い魔女、ワイリエ。
紅い魔女、レタニエ。
アルディシンに伝わるいにしえの伝承は紡ぐ。魔女たちの歴史を。
かつて優れた薬師がいた。
数々の薬草を発見し、病や怪我などに迷うアルディシンの民の為に薬草を処方し、無償で与えていたという。それゆえに薬師は自然を生み出し、自然の中に住まう神々から愛され、加えて神の力を分け与えられた。神の名を呼ぶこと、『詠唱』することで、その神の力を使うことが出来たという。
薬師には、二人の娘がいた。
長女、ワイーラナ。
次女、レトーラ。
薬師は自らが神々から与えられた力を、死の間際となって娘たちに託した。
「自らの為に使わず、救いを待つ人々のためにこそ、使え。それこそが我らに力を分けられた神々への何よりの供物となる」
と遺言して。
娘たちは、父の遺言に従い、アルディシンの民を救うために力を使った。そして二人は呼ばれるようになったのだ。
白い魔女、紅い魔女と。
「余談じゃがの」
老女は微笑みながら言う。
「ワイーラナはアルディシンの古い言葉で『白い鹿』を意味し、レトーラは『紅い鷲』を現す。故に白と紅に分けたのであろうかのぉ」
神の力の使い方は、代を重ねるごとに体系化され、二人の魔女ともに力を使うにふさわしいと魔女が定めた次代へと受け継がれ、それゆえに魔女に対する畏敬の念は強くなっていった。
アルディシンの微睡みの平和とともに、魔女はあった。
あの「出来事」
が起こるまでは。