凍れる雪の狭間で 04
アルディシン公家では、子どもが生まれると宴を開く。宴に先立って、いくつかの儀式が行われるのもアルディシン建国以来、現在まで続く伝統的な決まり、である。
宴に先立つ儀式。それはカトリックのアルディシン司祭による洗礼式から始まる。
時の大公ロールン2世の初めての男子、つまりは次代のアルディシン大公の額に聖水を塗りながら司祭は厳かに洗礼式を執り行った。
続くのは、紅い魔女・レタニエ。時のレタニエはアトエラと呼ばれていた。既に中年の域にかかり、加えて幼き頃から異相で有名であった。
逸話が残っている。
ある時、アトエラが治療を施していた男性が高熱でうなされ、目の前にいると思った魔物を斬った。しかし実際は、魔物と思ったのはアトエラのことで、男性に斬られた傷は顔の左反面に痛々しいまでに残り、加えて左目を失明することになった。
その異相のレタニエの姿は……なかったのだ。
故に、幼い次代の君主の前に進み出たのは、白い魔女・ワイリエだった。異相で知られたアトエラとは対照的にワイリエ・ラルフィーナは美貌で知られ、加えて20代前半という若々しさ。ワイリエの正装で現れたラルフィーナを見て、称賛のささやきが上がった。それを聞きながら、ラルフィーナは大して広いとは言えない大広間の隅々まで通る涼やかな声で言った。
「公太子よ、あなたはこのアルディシンを栄光と繁栄の国とするでしょう」
どよめきが上がった。
決して豊かとは言えないアルディシン。
その小国が繁栄すると予言した美しい魔女。ある意味陳腐にしか聞こえないその言葉に、しかし多くの者は期待を持って礼賛の拍手を送ったのだった。
儀式が終わっても、レタニエ・アトエラは姿を見せず。レタニエを待っていた一同は、しかしロールン2世の言葉に従い、宴を始めた。そして宴たけなわとなった時、異相の魔女は姿を見せ、
儀式が既に終わり、宴が行われていることを知るやいなや、
赤子を抱いた大公妃の前に駆け寄り、
「人を待つということすら出来ぬ者たちに、恵まれた予言を与えるつもりはない。公太子に幸など授けるか。私の予言を聞くがよい。公太子が公となりし折りより、幾星霜ものあいだ、アルディシンは醜き争いの地となろう。公太子は自らの血の中で、悶えつつ死ぬのだ」
あまりの言葉に、大公妃はその場に卒倒し、数日後息絶えた。
レタニエ・アトエラの、あまりにも残酷な予言を、ロールン2世は決して外には出ないように箝口令をしき、公太子は自分の将来についての予言など知らずに成長し、ロールン3世として即位した。
そしてこのロールン3世の時、トル・ビフィリアが発見されるのである。
紅と蒼の、奇跡。
双つの輝きと名付けられた、貴石。
希少価値の高いトル・ビフィリアはヨーロッパの王侯貴族にもてはやされ、一層その価値を高めた。トル・ビフィリアの名とともにアルディシン大公国の存在価値も高まり、結果ロールン3世の3人の娘たちは、ヨーロッパ貴族の元に嫁ぐことになった。
そして、ただ象徴として存在していた王家が、アルディシンのみならず、ヨーロッパの中で少なからず権力を持つこととなって、公家の中で権力争いが起きる。
アルディシンの平和の微睡みが乱されたのは、確かにトル・ビフィリアの発見からだったのだ。
ロールン3世は自らの子である公太子との権力争いの中、暗殺されるという憂き目にあう。
その死に様は自らの血の海で、もがき苦しみつつ息絶えた無惨な姿であったという。
『公太子が大公となりし折りより、幾星霜ものあいだ、アルディシンは醜き争いの地となろう。公太子は自らの血の中で、悶えつつ死ぬのだ』
それは確かに、レタニエ・アトエラの予言通りであったのだ。
「……レタニエ・アトエラは、宴のあと姿を消し、続くレタニエの名を私は知らない……レタニエの血筋は絶えたのやもしれぬ。それは分からぬ……それが全て」
「……」
「じゃがの。権力を巡る争いは常にある……それをレタニエの『呪い』と思うものがおらぬとは……限らぬの。たとえ、秘された過去であっても、それは完全に秘することなど出来ぬもの。だがこのアルディシンには呪いなどあってはならぬと、代々の大公は『レタニエ』のことを意図的に隠し続け、今や市井にあってはレタニエの名すら忘れ去られた。だから、今となってはかつての出来事は公家とワイリエの血筋にのみ伝わる話でしかない」
「あなたは、ワイリエ・マリエラ、あなたはどう思っていらっしゃるんですか?」
輝の言葉に、老女は苦笑してから、そのかつては美しかったであろう口元に、トル・ビフィリアで飾られた手を当てて、
「さぁての。それが呪いか、必然かは、私は分からぬが……人が集まれば、それぞれの思惑があろうて……レタニエがその象徴とされているだけであろうの」
相変わらず、能面のような表情の侍女に見送られて。
輝は待ちかまえていた馬車に乗り込んだ。
「神楽坂さま、宮殿にお戻りに?」
「……ええ」
「分かりました」
ピシャッ。鞭が乾いた音を立て、橇馬車はゆっくりと動き始めた。
「……しっかし、どっかで聞いたことある話やったなぁ?」
輝がぼやいているのは、さきほどの老女の話だ。
初めて授かった王女。喜んだ王は宴を開いた。だが一人の魔女が、自分が招待されなかったことを咎めて、幼い王女に呪いをかけた。成長した王女は魔女の呪いのとおり、糸巻きに指をさされて眠りにつき……目覚めのキスをしてくれる王子の到着を、数百年と待ち続ける……。
あまりにも、似ているではないか?
「ありゃ、アンデルセンやったか? グリム?」
輝の脳裏に、懐かしい光景が浮かぶ。
幼い、輝。
スラムの汚れた小さな、小さな部屋。
今は亡き母が語ってくれたおとぎ話。
目を輝かせて聞いていたのは、もう一度もう一度と何度もせがんだのは、幼い、輝。
「よう考えたら、何百年も寝とったんや、目ぇ醒めた途端に、王子様の前でみるみる白骨化するって、分かるんやけどなぁ」
もう、テルちゃんたら! 夢のないことばっかり!
愛妻の怒りの声が聞こえてきそうで、輝は思わず苦笑しかけて、しかしゆっくりと動いていく窓の外の景色に目をやった。
「……とにかく、さっさと終わらして帰らなな」
そして、輝は御者の背中側の窓を軽くノックして、告げた。
「申し訳ないが、ハレシュン伯爵邸までお願いできますか?」
全身が、軋むように痛い。
右肩から二の腕にかけてが、特にひどい。
動かそうとすると、思わぬ痛みのひどさに顔がゆがむ。
それでも、ずいぶんましにはなったのだ。
意識が戻ったのは、昨日。
それまで1週間も、輝は眠り続けていたという。
輝が発見されたのは、荒野の外れ、宮殿より遙か北、白樺の林の中だったという。薪代わりに使う白樺の木の皮を取りに行ったこの家の息子である、マリオールが発見し、意識のない輝を家に連れ帰り、治療を始めてすぐに吹雪になり、電話などの連絡手段を持たないジェナイソン家では、輝の状況を誰にも報告できずに今日まで続いている。
北国ならではの木で作られた頑丈な家の造り。おそらく同じように頑丈に作られている窓枠が、しかしカタカタと音を立てていることからも、吹雪は一層収まる気配がない。
この家には、電話がないのだと、女主人であるエレーナが言っていた。
……まだ、か……。
かつてない焦燥感にとらわれている輝の、やけどのようになってしまった右肩に、何やら薬を塗り込み、再び包帯を巻いているのは、輝を発見したマリオールである。エレーナによると、
『マリオールはここいらでは有名な薬師なの。大丈夫よ、任せていいわ』
とのことである。
「……身体が痛いのは、全身打撲だ。右肩のは、やけどのようだが、落雷のようだな。腕が動くから、神経や筋肉に損傷はないな」
説明をしながらマリオールは手慣れた様子で包帯を巻き直し、それから何やらみどりがかった、奇妙なにおいを放つ液体の入った椀を差し出した。
「飲め……筋肉痛や打撲に効く」
受け取ったものの、その匂いと色に思わず迷う輝に、しかしマリオールが続けた。
「毒は入ってない」
「……飲みます」
一口含んで、とんでもない苦みと少しの辛さを舌に感じて、しかし輝は残りを一気に喉下に流し込んだ。それから、大きな溜息をついた。
……良薬かなんかわからんけど、口に苦し、やな。
輝の気持ちを全く感じない様子で、マリオールはカタカタと震える窓ガラスの外を眺めている。
輝はマリオールの横顔をまじまじと見つめる。
濃茶の双眸、ブロンドを思わせる黒髪は母のエレーナと良く似ているが、その容貌はまったく違っている。
父親に似とるんやな。
そんな他愛もないことを考えていた時。
「……結婚しているそうだな」
突然。
思いもしない問いかけに、輝は数瞬言葉を探して。しかし、素直に応えた。
「ええ」
「子どもは?」
「……もうすぐです」
「そんな時期に、遠く離れたこの北国まで、何しに来たんだ」
母エレーナも聞かなかった輝の正体を聞き出そうとするマリオールの言葉に、しかし輝はどう答えたものかと、黙ってしまう。
部屋に、静かな空気が流れた。
だが、口を開いたのはマリオールだった。
「……とにかく、奥さんは心配しているだろうな。吹雪は明日の朝には落ち着くはずだ。そうしたら、電話がある家まで連れて行ってやる」
「ありがとうございます」
心底感謝しながら、輝は頭を軽く下げて。
すぐに疑問が浮かんだ。
この時期の吹雪は、いつまで続くか、分からないのよ。そうねぇ……あと、1週間くらいは続くかしら。
「……エレーナさんは、あと1週間続くって」
「あ? ああ、吹雪のことか。そうだな。このふぶき具合だと、そう思うのが普通だけどな。雪神シュリーイと、風神ザナールの宴は今日の夜までだ」
「?」
全く理解出来ない言葉を聞いて、輝の頭は真っ白になる。
なんや? シュリーイとザナールって、なんなんや?
「……マリオールさん」
「お、そうだった。お前さんに、分かるように話してやらんといかんな。東の国から来た悪魔払い師さんに」
「どうしてそれを!」
大声を出して、次の瞬間輝は自分の右肩を抑える。マリオールは苦笑しながら、
「無理するな。覚えてないのか? どうして、そんな傷を受けたのか」
御者に、ハレシュン伯爵邸まで向かうように告げて、しかし輝は思い直した。ここで直接乗り込んでいっても、分かるものも分からないようになるかもしれない。それは事態を長引かせる。それだけは避けなくては。
……はよ片づけて、日本に帰らな、麦子に怒られるわ。
そうとは言っても……妙案はないか。