凍れる雪の狭間で 06
母・エレーナは薬師としての技術を受け継いだだけの、いわば名前をつないだだけのレタニエだった。そんなレタニエが何代も続き、神々と会話を持つ能力を持ったレタニエは、マリオールとアトエラの間には1人いたくらいだ。まして、『呪いをかけたレタニエ』という誹りを受けられる中、レタニエを公に名乗ることは出来ない。レタニエに必要な伝承はもうほとんど残っていなかった。
だが、マリオールは風神ザナールと会話することで、知識の神から代々のレタニエがなくしつつあった知識をもう一度受け入れた。
そして、優れたレタニエとなったのだ。
かつての事件の顛末も、ザナールから仕入れた情報によるものらしい。
「ま、とりあえずそういうことだ。あした、吹雪は止んでいる。確認したら、すぐに近くの電話のある民家に運んでやる。とにかく休め」
「……まだ、見つからない?」
「狭いアルディシンの中は、だいたい調べさせた。ここまで見つからぬとなると、国外に逃れたと思う……べきか?」
仄暗い部屋。
雪の季節には白夜になるアルディシンである。夜でも、地平線の際に太陽が残っている。雪は微かな太陽の光と、凍らんばかりの月の光を反射し、昼間のような明るさをアルディシンに届けている……にも関わらず、その輝きを拒否せんばかりに分厚い生地のカーテンによって、部屋は仄暗い中にある。
調度品は少ない。
小さなテーブル。
決して豪華とはいえない2客の椅子。
一つの椅子には、少女。
長く伸ばされた黄金の緩やかな巻き毛が微かな動きの度に、薄暗い中にでも様々な輝きを変えている。見事なまでの深蒼の双眸に、しかし底の見えない暗さを見せつつ、なにより外見上の見た目にそぐわぬ、微笑みを浮かべている。やがて、少女はやはり見え目にそぐわない口調で問いかけた。
「我らの結界に全く気づかず、魔法陣を描いたのは確かよの。結界に跳ね返され、かなりの痛手を負うておるのも、事実。その身体に国外に逃れたとは考えられまいて。あの……神楽坂にアルディシンで匿うほどの知己がおるとも思えぬが……」
もう一つの椅子には、青年。
「……だが、ここまで手を広げても」
「一人。一人、おるやもしれぬの」
「?」
「先の騒動であったか。追いやったもう一人の魔女が。あくまで我らを退けようとした、『神々に愛されたレタニエ』……未だに続いているとは……考えられぬことも」
思いもしなかった少女の言葉に、青年は沈黙する。
少女はそれを見遣って、
「やれやれ、ヒトと暮らすことでずいぶんヒト臭くなったものよの。駒と同化しては、ゲームは続けられぬ……まして、あの騒動は、我の役目であったか?」
「私だ」
「そうであったはずよの……この後始末は、自らつけねばの」
「……」
隠しもしない非難に、青年は怒りの表情を見せ、少女を睨みつけた。そして無言のまま、椅子から立ち上がる。
青年の背中に、少女の声が突き刺さる。
「どこへ?」
「レタニエが消えたか、存在するかどうか、見極める」
「そうだな……ずいぶん遅くなったが」
靴音も高く、青年が姿を消して。
仄暗く自らの視界さえも確保出来ないそんな空間に、一人残された少女は、奇妙なまでの妖艶な微笑みの中で呟いた。
「……さて、やはり相手を選び間違うたか? ……ヒトの中で育っても、我とああも違うものかの……いずれハルフィリンも斬らざるを得ぬか……我が力を返してもらわなくては」
そして、灰色の虚空を見つめて、少女は呟いた。
「ゲームは一人ではつまらないんだけどねえ……」
時計は、夕暮れを示している。
白夜の季節は、太陽を頼って生活することが出来ない。時計が頼りだ。
6時から、と予告していた通り、ハレシュン伯爵家で内輪だけの宴が行われていた。
雪が融け、北国の民にとってはもっとも待ち遠しい季節である春が来たら、ハレシュン伯爵ロナルフと、大公の姉姫ルクレースイの婚姻の儀式が執り行われる。それを祝っての宴だったが、ルクレースイ公女の母であるマレローネイ公太妃の希望により、数名のごく内輪だけによる晩餐会が行われていた。
もっとも主賓である大公ロールン7世は、
「客人が行方不明につき、捜索指揮のため」と欠席しているが、晩餐会に出席している全員が大公の意図が公太妃と同席するのを避けたためであると、知っていた。
マレローネイ公太妃と、ロールン7世の母・ヒルディーシエ公女。
公女というのは、生んだ息子が公太子となったために、体裁を整えるために、重臣たちが苦心のあげく造りあげた地位だった。
マレローネイとヒルディーシエの実家は貧しいとまではいかなくても、名家ではなく母親がアルディシン第4の名家カントル家の分家の分家の養女といったぐらいがめぼしいぐらいの血筋だった。
先の大公に望まれたことで、後見もなく大公妃となったマレローネイのために、血筋や家柄を重んじる重臣たちは苦心して造りあげた。主家筋となるカントル家の養女という形で、大公に嫁いだ。
それを応用して、既に亡き人となったヒルディーシエは先の大公の妹姫であり、カントル家当主と結婚しており、男児を生んだ。これがハルディナントである。マレローネイ公太妃の子はいずれも女児であり、大公位を継ぐ者は男児でなくてはならない。それ故に、カントル家から先の大公シュレオン2世の養子という形をとった……と。
だが、先にシュレオン2世がハルディナントを『我が子』と宣したことは、まったく無視されている。さすがに、重臣たちも妻の妹と子を成したことは、喩え大公といえども隠しがたかったのか。
ちなみに言うなら、名前を出すことを受け入れたカントル家当主であった、アレクセイ・カントルは御歳82歳、ロールン7世即位の翌年、『一人の子孫』も残すことなく亡くなり、カントル家は滅亡することとなった。
話を元に、戻す。
確執、という以前に二人は接触したことはなかった。
同じ場所にいた、というのは数えるぐらいであって、主賓として招いたハレシュン伯爵も、最初から来ないものとして、席すら用意していなかったのだから。
「伯爵、ルクルをお願いしますね。少しばかり、そう、少しばかりわがままな所はある子だけれど、心根は本当に優しい娘ですから」
「母様ったら」
家族だけの、ほのぼのとした光景だった。ルクレースイの妹二人も声を上げる。
「いいなあ、姉様は。私たちも伯爵のようなすてきな方と結婚したいな」
「ミリシとマシリは私が、ノルウェーかスウェーデンのすばらしい貴族の方と、結婚できるように取りはからってあげるから、心配などしないでよいのですよ」
母の言葉に、しかし末娘のマシーリエが甘えたように、
「えー、母様の側でいたいの」
マレローネイは苦笑しながら、
「そうね、そうして欲しいとは思うけど、私はお前たちのためには、国の外に出た方がいいと思うわ」
マレローネイとルクレースイの二人しか知らない話だが、ルクレースイもノルウェー貴族の跡取り息子と話が進んでいたのだ。母親は先方と話を進めていた矢先、娘自身がハレシュン伯爵との結婚を切り出したのだ。
『結婚、するわ。もう、決めたの』
『ルクル、どうして?』
『……だって、私も、ミリシもマシリもお嫁に行ったら、母様はどうなの? あの、ハルディナントが何するか、分からないじゃない!』
『ルクル、なんてことを!』
マレローネイには娘しかいない。
公家の姫は、いずれ国を出ていく。国外の王侯貴族と結婚、子を成すことでつながりを広げていく。いわゆる結婚政策と呼ばれるものだ。それは今では政策とはまったく意図を反した伝統として、残っている。
3人の娘がそれに倣ってアルディシンを出ていくとなると、マレローネイは一人残されることとなる。
けれども、娘たちの幸せを思えば、娘たちは国外に出ていく方が良いのだ。
先のない……小さな貧しいアルディシンにいるよりも。
マレローネイには、宮殿以外、家はない。
実家はマレローネイとヒルディーシエの娘二人しかなかったから、絶えた。
養女となったカントル家も既にない。
もし、公太子を生んでいれば。
否、妹・ヒルディーシエがハルディナントを生んでいなければ、娘が母の行く末を考える必要などなかったはずなのに。
『だから、私が母様を守る』
告げた、ルクレースイの堅い表情を、マレローネイはきっと忘れない。忘れられない。
『ロナルフは好きよ。でも、それだけじゃ駄目なの。私たちは結婚することで契約を交わすわ。大公位を取り戻すまでは共に戦うって。アルディシンは変わらなくちゃいけないけど、ハルディナントではダメなの……だから、大公位を取り戻さなくちゃいけない。だから……そのために、私はロナルフと一緒に戦うのよ』
ロナルフを、ハレシュン伯爵ロナルフを、アルディシン大公にする。
そうすることが、母様や、ミリシやマシリを守ることになるから。
私は、決めたの。
娘の決意を、母は受け入れることしか、出来なかった。
話題を変えようと、マルローネイは視界の隅で光ったものに目をこらした。
「ロナルフ、あなた、そのバングル素敵ね?」
「これ、ですか?」
ロナルフが左手首にはめたバングルを、手首から外さず、手首を上げてバングルをマルローネイに見せた。
「ええ。いつもしているの?」
「はい」
「小さい頃、宮殿に来ていた時はしていなかったような気がするけれど」
「素敵、見せて見せて」
かしましい妹たちを、ルクレースイが制する。
「ダメよ、外さないのよ」
「見るだけなら、いいよ」
妹たちはロナルフの椅子に駆け寄り、手首のバングルを見る。
かなりの年代もののようで鈍く光っている、幅広の銀のバングルだ。娘の陰からそのバングルを見ていたマルローネイはすぐに気づいた。
「あら、その紋章は?」
「そうです、大公家の紋章です」
飾りもほとんどないが、ただ一つ大公家の紋章が中央に配され、立体的に彫刻されている。
「これはハレシュン家に代々伝わるものです。肌身離さず常に身につけておくように、と亡き父から譲られました。伯爵の持ち物だそうです」
「そう……」
その時、マルローネイの記憶の片隅に、ある老人の姿が浮かぶ。マルローネイは微笑みながら言った。
「ああ、そういえばカントルの義父様も、大公家の紋章が入った指輪をしていたわ」
「え?」
ルクレースイも初めて聞く事実に、目を上げた。
「カントルの義祖父さま?」
「ええ、そうなの……ロナルフ、ごめんなさいね。そんな大切なものを。さあさ、二人とも席に戻りなさい」
「はーい」