凍れる雪の狭間で 07
晩餐会が終わって。
さすがに白夜であっても、若干暗くなっている。
名残を惜しむ妹たちと母親を送り出して、一息つく暇も持たず、ルクレースイは待ちかまえていた商人たちと打ち合わせを始めた。春に迫った結婚式の準備だ。区切りを見つけて、今日はここまでと商人たちを帰らせて、いつもなら微笑みながら打ち合わせの様子を見ているロナルフが途中で席を外したまま、帰ってこなかったことに、ルクレースイは初めて気づいた。
勝手知ったるハレシュン邸。
ロナルフの私室に向かう。
ロナルフの私室の前で、軽く咳払いをして、ノックする。
しかし、返事はない。
ドアノブを回すと……あいている。
微かな疑問を抱きつつ、ドアをあけ、のぞき込んだ。
明かりは、ついている。本好きのロナルフらしく、私室の壁は窓以外のほとんどが本棚に選挙されている。ルクレースイは顔だけドアから突っ込んで辺りを見回す。たった一カ所、本棚が設置されていない壁は漆喰で塗られ、大公家の紋章がレリーフのように飾られている。
それを初めて見た時、ルクレースイはロナルフにその理由を聞いた。
『なんで、あんなものがあるの?』
『ここは代々の伯爵が私室として使ってきた部屋だから、誰の時代に作られたかは伝わっていないね。大公家に忠誠を示すため、かな?』
『すごく時代錯誤ね。あ、そういえばこんなカンジだ』
『ん?』
ルクレースイには少し高い場所にあるその紋章を見ながら、ルクレースイが呟いた。
『宮殿にも、こんな風に突然紋章がある場所があるのよ。子供の頃、不思議で仕方なかったんだけど、誰も理由が分からないのよ』
『そう……』
ドアからまっすぐ、奥に置かれた重厚な机に向かっているロナルフの背中が見えた。思わず安堵の溜息をついてから、ルクレースイは声を上げた。
「ロナルフ?」
「……?」
声をかけられたことをしばらく理解出来なかったように、ぼんやりと、しかし振り返ったロナルフは、力無く微笑んだ。
「ああ……ルクル」
「どうかした?」
ルクレースイの言葉は、奇妙なロナルフの表情を正確に読みとってのものだった。
「……ミオ家からの手紙だ。春の式には参列する気はなさそうだ」
ロナルフが差し出したのは、一通の手紙。促されるままに、ルクレースイが読む。
「……『当家の娘逝去につき、一同喪に服しております』って、喪はとっくに明けているのに」
「それだけ……赦すことなど出来ないってことだろうな。マータ姫を裏切った男を」
「ロナルフ……」
未来の夫の口元、常は涼やかな微笑みを浮かべているのに……今は、なんて自嘲の、自らを赦さない微笑なんだろうか……。
見つめていたルクレースイは、小さく、ロナルフに分からないように溜息を吐きだした。
初めて会ったのは、1歳なる前だったからルクレースイの記憶にも、マトリエナの記憶にもない。
宮殿には、ルクレースイと同世代の子供がいない。だからマトリエナはルクレースイの遊び相手として、頻繁に宮殿に訪れていた。ルクレースイと同じように遊び、同じように机を並べて勉強した。
淡い青茶の双眸はくるくると良く動き、
『おしゃべりは舌がすり減るから止めなさいって、お祖母様は言うの。でも舌なんてすり減らないって、ロナルフが教えてくれたからマータはおしゃべりのままでいることにしたわ。そうでしょ? 喋りたいことは喋らないと』
屈託なく、いつも笑っていた。
妹たちに母がかかりきりだった頃は、マトリエナと二人で宮殿の『探索』に出かけ、隠れ小部屋で疲れて眠ってしまって宮殿中を慌てさせ、大捜索をされたこともあった。
ルクレースイにとって、マトリエナは友人であり、姉だった。
ロナルフとマトリエナの婚約を知ったのは、ルクレースイが12歳の時。母の侍女であるエリヤが教えてくれた。
『だから姫様。マータ様はいろいろと準備がありますから少しお出でが少なくなるかも知れませんね』
15歳のマトリエナは嬉しそうに微笑んで、
『ロナルフに相応しいお嫁さんになるように、マータは頑張らなくちゃいけないの』
と言っていた。
あれから、4年。
最後にマトリエナに会ったのは、亡くなる2週間前。
少し疲れた表情で現れたマトリエナは、言った。
『ルクル、あなたにはしばらく会えなくなるかも』
『え? どうして?』
『……今は言えないけど、これだけは知っておいてね。私は、私のやり方で私の幸せをつかむから』
ルクルは、力無く肩を落とすロナルフを見るたび思う。
マータ、最後に会った時のあの言葉は、一体どういう意味を持っていたの?
だが、それに応えるマトリエナはこの世にない。
かつての大公の妹姫に、育てられた、孫娘。
どこまでも誇り高く、美しく、そして……生まれながらの許婚であったロナルフを見下していたようにロナルフには感じられた。
時には、第3の名家ミオの出身でありながら、ミオよりも上位にあるとされている、大公に次ぐ家柄であるハレシュン家を、そして自分と同じく大公家から降嫁した公女を母とするロナルフを侮辱する、そんな言い様さえあったというのに。
そんな高慢な女性であっても……ロナルフは愛していたのだ。
そして、否、愛していたからこそ、愛されたい、と願ったのだ。
なのに。
そんなロナルフの気持ちも知らずに、かの姫は言ったのだ。
『あなたとの婚約、破棄になるかもって知っていて? 大公殿下とのお話、進んでいるのよ。残念だわね、あなたが大公殿下だったら良かったのに』
吐き捨てるように、言われたその言葉の意味。
アルディシン大公になれるのは、男児のみ。
大公の実子である男児が、第1位後継者。
そして、実子である女児を妻とする者が、続く後継者。
ロールン7世ハルディナントは妻帯すらしていないので、子がなく。異母の3人の姫君も結婚していない。
だが、次の大公が誰になるか、など知らない。
知る必要など、ない。
今は、ロールン7世がいなくなれば。
そう、いなくなれば、かの姫、マトリエナ姫は私との婚約を取り消すことはない……。
その一念だけで、ロナルフはハレシュン家の書庫奥深くに眠っていた『忌むべき書』を繙いた。
忌まわしき存在を、呼び寄せる魔術書を。
なのに……。
「ロナルフ、今となっては仕方ないわ。ミオ家とは今後和解するほか、ないでしょう?」
ルクレースイの言葉に我に返って、ロナルフは小さく頷いた。
「そう、だな」
「ところで、やっぱり日本から来たエクソシストは見つかってないのね。ハルディナントが躍起になって探しているようね。マリエラの所に行って、それから橇馬車を待たせているちょっとの間に失踪したって……何か、あったのかしらね」
「おや、マリオールじゃないかい? お客さんも一緒……お前さんを頼ってきた病人か?」
大柄なマリオールが抱えるように支えていた青年を見て、家人は思わず息をのんだ。
抜けるように白い肌、北欧にもなかなか見かけないほどの黄金の髪、蒼の双眸。何より、整い過ぎた容貌。
「こりゃ、お人形さんみたいじゃの……」
家人の言葉を、あえて無視してマリオールが輝の肩を抱いたまま、言う。
「すまないが、電話をかしてくれないか。国際電話だから金はかかるが家の方に請求回してくれ」
「そりゃかまわんよ。お好きにどうぞ」
家人の了承を得てから、マリオールは電話の前に輝を誘い、素早く手近にあった椅子を引き寄せ、輝を座らせる。
「嫁さんところにかけろ。心配してるだろうが」
「……ありがとうございます」
軋む身体にむち打って、輝は受話器を取った。
ズズズッ。
麦子の母・稲子が入れてくれたちょっと渋めの日本茶を啜って。
神田は大きく溜息をついた。
稲子がもう一つ湯呑みを出して、声を張り上げた。
「麦子! お茶、入ったよ」
「うん、今行く」
突然の娘の帰宅は、しかし普通喜んで迎えるであろう母親の反応は、冗談とも取れない口調で、
『あんたの部屋なんてないけど? 物置になってるから、寝る場所なんてないよ?』
『えー、どこで寝るのよ』
『仕方ないわね、寝る場所だけ荷物を移すか』
仕方なく、物置と化した自分の部屋に置かれた荷物の移動を始めようとする麦子を、必死にとどめて、神田がえっちらおっちら荷運びすることとなり、
『すまないわねえ、ついでにこれも運んでくれる?』
『神田さん、庭に水なんかやってくれない?』
いつの間にやら、家政夫のようになっていて。
一息つくのに、かれこれ2時間近くたっただろうか。
とにかく麦子がここに落ち着いたのを確認してから、すぐにでも東京に戻らなければならない。輝の情報がいつ入ってくるか、わからないからだ。
麦子も加わって、日本茶とどらやきで世間話に花が咲いて、そろそろ、と神田が切り出そうとした時。
電話のベルがけたたましく鳴った。
「はいはい、ちょっと待ってね」
と電話に向かって話しかけている稲子の背中を見つめて、切り上げるチャンスを逃して、神田が深い溜息をついた時、麦子が言った。
「神田さん、東京戻らなくちゃね」
「あ、はい」
「いいよ。今の内に行っちゃえ。母さんに捕まると長いから」
さりげない麦子の言葉に、ほろり涙が出そうになりつつ、
「そうですか、じゃあ……」
と立ち上がった時。
「え? えっと……あ?」
困惑したような稲子の声。次の瞬間、稲子が振り返る。
「なんか、外国語みたい……え? は?」
しかし、受話器は話さない。次の瞬間、稲子の表情が変わった。
「あらあ、テルちゃん?」
ガタッ。
神田が制する間も与えず麦子が立ち上がり、話を続ける稲子の側に、思いもしないほどの大股で歩み寄り、
「麦子ったらね、突然帰って来て、神田さんに手伝ってもらって……」
「かして!」
受話器を奪い取り、
「テルちゃん!?」
『やっぱ、そっちにおったか? 身体の方は』
「テルちゃんのバカ!」
築数十年の米倉家が揺れたかと思うほどの、大声量。
さすがに、母親。娘の行動を察して、しっかり耳をふさいでいた稲子はともかく、麦子に続いて電話に歩み寄った神田は大声量に直撃されて、思わず目を白黒させる。
「麦子さん……」
「電話くらい、寄越しなさいよ! とってもとっても、心配したんだから。神田さんも、神輝会の人も……」
『そうか……すまんな、麦子』
「バカぁ……」
声がつまりそうになる麦子の様子をハラハラして見ていた神田だったが、
「どこで浮気してんのよ!」
『まあ、いろいろあってな』
「もう、知らない!」
と突然、神田に受話器を放り出すかのように渡し、部屋をまた大股で出ていった。
「え、え?」
またも目を白黒させていた神田は受話器からの声に、我に返った。
『誰や? 神田か?』
「先生! 今、どこですか?」
『アルディシンにまだおるんや。すまんけど、麦子のこと……頼むわ。それから……』