凍れる雪の狭間で 08
受話器を置いて、周りを見回すと、近くに置かれていた重厚な食卓で家人から渡された暖かい飲み物を飲んでいたマリオールがニヤニヤと笑いながら、
「なかなか元気な奥様、だな?」
「ええ。そこに惚れてるんですよ」
臆面もなく、さらりと告げて。苦笑に変わったマリオールをまっすぐに見つめて、輝は告げた。
「事情があって、すぐにでも帰りたい。でもこの仕事は片づけなきゃ、いけない……手伝ってもらえますか?」
マリオールの返事は、すぐに帰ってきた。
決して、広くはない宮殿。
加えて大公の私室がある一角はワイリエの館とは違い、防寒の為に高さを取らない天井を見上げて武官長は小さく、そして密やかに溜息をついた。
軍隊・警察を持たないアルディシンでは、その全てを護衛武官が引き受けている。とは言え、主な仕事といえば公家で時折行われる儀式に花を添える程度だったはずが……。
大公の客人、東の国から訪れた青年の失踪。
顔色を変えて、御者が橇馬車を希に見るスピードで帰ってきたかと思うと、
『お客人が、姿が、消えました!』
180人しかいない全土の護衛武官を総動員して、アルディシン全土を走り回っての捜索を続ける一方で、昨日に大公から新たな命令を受けた。
『レタニエを称する者を、内々に探せ』
アルディシンの歴史など大して知らない武官長ですら、レタニエの名前ぐらいは知っている。
もっとも、この宮殿でかつて行われたと言われている『呪われた事件』は、当然ながら護衛武官長は知らない。
絶えたはずではないか? レタニエは? 大公はなぜそんな?
隊長には皆目見当もつかない。
だが、仕事は仕事。護衛武官が命じられたのは、客人の捜索と、レタニエの捜索。それ以上の詮索は必要のないことだ。怒濤のように忙しかったのはここ何日か。もう二度とこんな忙しさを経験したくないと、内心で溜息をつきながら、隊長は大公の私室の扉をノックした。
「アルディシンを隈無く探しましたが、レタニエを称する者はいないようです」
護衛武官長の言葉に、ロールン7世は小さく頷いた。心ここにあらず、といった体の大公の様子を気にもしながら武官長は続ける。
「しかし……薬師の全員に確認を取れたわけではありませんで……北に地元の者しか知らない、評判の薬師がいるそうです。その者だけ、所在が確認出来なかったようです。家人によると、治療のために家を空けている、とのことですが……」
「何?」
「いえ、僻地故に連絡が取りにくいからではないかと」
大公の言葉に、思わず言い訳を始めようとする武官長をとどめて、大公が言う。
「そのものの、名は?」
「は、薬師の名、ですか?」
「そう」
「……マリオール・ジェナイソンと聞いておりますが」
橇から降りて。
柔らかな雪を踏みしめることに、これほど体力がいるとは思わなかった。思いもせず蹌踉めく輝の身体を、マリオールの力強い手が支えた。
「どうも」
「……こんなに弱っていると、心配だな」
「大丈夫、ですよ」
極上の笑顔でごまかしてみても、しかし若きレタニエは深く溜息をついて、
「どうかな……」
朝。
目覚めると、吹雪はすっかりと静まり、太陽が姿を見せていた。エレーナは『やっぱりマリオールは良く見ているのね』と誇らしげに微笑んでいたが、マリオールは母親の様子をほったらかしにして、電話のある家に向かうと輝が告げた。
だが、輝は言ったのだ。
「夕べ、思い出したんですが」
「?」
「ドルイド教の一派で、神と交信する時に用いるクスリがあるとか。霊力、体力ともに非常に向上させることができるとか」
輝の言葉を聞いた瞬間、マリオールとエレーナの表情が険しくなる。
「カリュナーズ薬のことを、言っているのね?」
「あるんですね、やっぱり」
「あるわ、あるけれど……」
とエレーナはマリオールを見た。一方のマリオールは険しい表情のまま、
「……なぜ、そんな便利な薬がありながら、一般に知られていないか……賢いお前さんなら分かるだろ?」
輝は力強く頷いて、
「ええ、あくまでも一時的な向上であって、タイムリミットがあるんですね。でも、リミットを過ぎると……」
「弱い者によっては、死に至る、からだ」
衝撃的な答えを聞かされても、輝は平然と言葉を紡ぐ。
「俺は、そんなに弱くない」
「そうかも知れない。だが、死を招くことすらある、薬だ。だからこそ秘された薬だ……わからんぞ」
それでも。
喩え、危険を冒してでも、
俺は急がな、あかん。
あいつが……麦子が待っとる。
きっと、泣きながら。
俺は、早う日本に、麦子の元に帰るんや。
「効力は半日。半日を過ぎると、どうなるか、俺たちにもわからん……いいんだな」
マリオールの言葉は最後の確認。輝は大きく頷いて、
エレーナから渡された黒い液体が入った椀を受け取った。電話をかけに出かけている間にマリオールから指示を受けた、エレーナが調合しておいたカリュナーズ薬だ。
そして、一気に飲み干した。
「すぐには、変化はない……とりあえず、ワイリエの所に向かうぞ」
「?」
「今回のこと、いや……アルディシンの混乱はワイリエが絡んでいる……間違いない。今度は振り落とされないように。俺も行くから、心配するな」
そして。
マリオールはしんと静まりかえった雪原の中。
冷気に包まれた空気の中で、マリオールの静かな声が響く。
「風神、ザナール、我を運べ。我が名はレタニエを冠するマリオール。マトルスより出でて、汝が祝福を受けし者。我とこの者をワイリエの元に運べ」
答えは声ではなく。
最初は緩やかに、そして次第にその力を強め始めた風が、二人を包み……そして、二人を地上から消し去った。
まるで霞の中に、いるようだった。
足が風によって地上を離れた途端、輝の身体はまるで重力を感じなくなったようだった。不思議な感覚に輝は反射的に足を踏ん張ろうとするが、その様子を見ていたマリオールが言った。
「足を踏ん張っても、変わりゃしない。すぐに慣れる」
慣れるって言われてもなぁ……。
内心でぼやきながら、輝は回りを見た。
霞のようにぼやけている向こうは、なんとか確認出来る景色が驚くほどのスピードで流れていく。
違う、景色が流れているのではなく、自分が移動しているのだ。
輝はすぐに答えにつきあたって、とりあえずマリオールに聞いてみた。
「どれくらいで着きます?」
「そうだな……あと10分くらいか」
「10分?」
王宮からマリオールの家まで直線距離でも80qはあるとエレーナは言っていたにも関わらず、具体的に時間が出てきたのと、思った以上に早い時間に輝は思う。
早いなぁ、オレも使えるようになりたいなぁ……仕事に使えそうやけど。ま、無理な話か。
やがて。
「着くぞ」
マリオールが周りを見渡して、呟く。輝も顔を上げた。確かに霞の向こうのスピードが緩やかになっていた。
ワイリエの屋敷奥。数日前、輝が通された大きな暖炉の前で、ワイリエ・マリエラはロッキング・チェアに腰掛けて、ぼんやりと燃え立つ炎を見つめている。マリエラのロッキング・チェアの後ろに、氷のような無表情のまま、侍女のリサ・フォトナーが立っている。
そして、リサは不意に言葉を発した。
「ワイリエ・マリエラ。何者かが来ましたね」
「そうじゃの……何者かが来たの……」
静かに控えていたリサ・フォトナーの言葉を繰り返して呟く。リサが踵を返した。そしてワイリエに背中を向けたまま、言った。
「連れて来ます」
「……連れてきておくれ」
心ここにあらぬように、そしてリサの言葉を反復して、老婆は言った。ロッキング・チェアを緩やかに動かしながら炎を見つめている小さな後ろ姿を、顔だけ振り返って、リサは見つめた。
そして口の端に、奇妙な笑みをはいて、部屋を出ていった。
「誰ぞ来た……リサが連れてくる……わしは、待てばよい、のお……」
老女の独り言に、応える者はない。
一陣の強い風が吹き抜けた。
輝は自分の脚が地面に着いたことを、感じた。
輝の頬を、刺すような冷気が撫でた。
「着いた」
「着きましたね」
輝は眼前に広がる光景を、鮮明に覚えていた。たかだか1週間ばかり前のことだから。
この石造りの建物より少し離れたところで、輝は橇馬車を降りさせられた。自分たちは近づくことが出来ないのだと、申し訳なさそうに説明した御者の意顔を不意に思い出した。
重厚な造りの玄関。
1週間前、この玄関を開いたのは、一人の少女だった。
大理石のような白く、そして感情を加えない声で輝の名を呼び、ワイリエの元へ導いた。
「……来たぞ、精霊が騒いでいる」
マリオールの言葉に、輝は現実に引きずり戻され。
すぐに、玄関がゆっくりと開いた。
「いらっしゃいませ、神楽坂さま。たびたびのお越し、痛み入ります」
淡々と語る少女は目を二人と会わせようとしないまま、形式通りの口上を続ける。前回同様、声にはまったく感情がなく、輝とマリオールは黙って聞いている。
「主ワイリエ・マリエラが待っております。どうぞ私についてきてください。ですがワイリエは神楽坂様以外とはお会いしませんので、お連れの方はこちらでお待ちください。申し訳」
少女の言葉が途切れたのは、マリオールが自分に向かって左手をかざしたのを見たからだった。掌が少女に向けられている。少女が沈黙し、今度はマリオールが声を上げた。
「おい、こいつは何者だ?」
「前来た時は、リサ・フォトナーと名乗ってましたが」
輝の応えに、マリオールはニヤリと笑って。
「ホウ? ワイリエはこいつに誑かされてるのか? こいつだけじゃないだろうな。こんな小物に誑かされてるんだとしたら、ワイリエの能力もずいぶん地に落ちたもんだ」
「小物、ですか?」
少女を挑発するようなマリオールの言葉に、輝は思わず苦笑する。だがリサの方は相変わらず、無表情を貫きながら、
「失礼ですが、お名前は?」
「小物に名乗るほどの者じゃあ、ないんでな」
鼻で笑ってみせるマリオールをリサは静かに見つめて、
「では、あなたがレタニエなのですね。レタニエ・レニエの血を受け継ぐ者……なればあなたには別の役目があるということになります。ご存じですか?」
思いもしなかった言葉に、マリオールはリサに手をかざしたまま、眉をひそめた。
「なんだと?」
「私の主人たちが、レタニエを見つけ次第、連れて来いと仰せなので」