凍れる雪の狭間で 09






少女の無表情な声が不意に変わった。
低く表情を押し殺した声が、艶を帯びた女性の高い声に。
そして、少女の姿もあっという間に変わった。
楚々とした少女の姿は、一瞬にして妖艶な女性になったのだ。
女性は、毒々しいまでに赤くふくよかな唇に笑みをはいて、言う。
「来ていただけるでしょう?」
あまやかな、そして心をとろけさせるような声。だがその声には有無を言わせる響きが感じられた。ただの声のはずだ。自分は問いかけられただけなのに、
『行く』と応えようとしている自分の唇に輝は驚く。全身の力を込めて、言葉を握りつぶそうとする。
声一つに、これだけの力がある。
その声の『力』でリサ・フォトナーと名乗った女性の正体が、輝には分かった。
こいつ、淫魔の変種か?
自分の答えを握りつぶしたのにも関わらず、足はリサに向かおうとする。それを必死で抑えながら、輝は傍らに立っているマリオールに注意を促そうと、視線を向けた。
だが。
マリオールは先ほどと変わらず飄々とした体で立っている。相変わらず左手はリサに向けられたままだが、自分と同じような状況に陥っていないのは一目瞭然だ。
「マリオール、さん?」
「うん?」
マリオールはその時初めて、輝の異変に気づいたようだった。
「なんだ、こいつがなにかしたみたいだな。ちょっと待て、今解いてやるから」
マリオールは右手を輝の肩に置いて、二言三言呟いた。途端、自らの意志に反して、リサの元に向かおうとして足が、不意に意思に従ったので、思わず蹌踉めいてしまう。それをマリオールの右手が輝の身体を支えた。
「……ありがとうございます」
「いや、大したことじゃない。お前さんもエクソシストなら、あんな小物に遊ばれてるんじゃないな」
「どうして!」
動揺しているのは、リサだった。
輝に立たせて、マリオールはリサを見据えた。
「こっちの手の内を晒すようなバカはいない」
そりゃそうや。
輝は思わず納得する。
最初から手をかざしていたことは、何か意味があったのだ。リサの術を阻止する何かをするために。
「さて。これからどうする?」
あっさりと告げるマリオールに感心しながら、輝は言った。
「情報が、必要ですね」
「そうだな、少し待ってろ」
マリオールはさっき呟いたような、聞き慣れない言葉を二言三言呟いた。唯一、『ザナール』や『リフォー』という以前説明された神の名前が聞き取れた。マリオールは手をかざしたまま、リサに近づいていく。
一歩、二歩。
恐れも見えないマリオールの様子にリサは後ずさろうとするが、足が動かない。
「え?」
ある程度の間合いを取ってマリオールは立ち止まり、そこで初めて左手を下ろした。
「さてと、何を聞き出す?」
「下っ端風情がどれほど知っているかは分かりませんが、とりあえずは主人の名前を」
リサは、ワイリエ・マリエラの侍女のはずだ。実際さきほどまでワイリエのことを「主ワイリエ・マリエラ」と呼んでいた。だが続く言葉で「私の主人たち」とも言ったのだ。輝はその言葉の微妙な違いを見逃さなかった。もし言葉が指す相手が違うとしたなら、このリサにはワイリエ・マリエラ以外に仕える主人がいることになる。
「……」
リサの答えはない。
なぜか分からないが、必死の様子で首を横に振っている。その様子はマリオールの施した呪縛から逃れようとしているだけではないような様子だった。輝はすぐに理解した。
だからいやなんや、下っ端を扱うんは。
「……どうやら信頼されてないみたいですね。主人の名前を言おうとすると、言葉が出ない。そういう呪縛をかけられているようです」
「なんだぁ?」
マリオールのあきれたような口調に、視線だけは威勢のいいリサがようやく言葉を発した。
「失脚した程度で絶えかけたレタニエ風情で、何を言う」
「そのたかだかレタニエ風情に、捕らえられて動けないのは誰か、考えるんだな」
「……」
一転して冷たくなったマリオールの言葉に、リサは答えを喪って黙り込む。リサの様子を一瞥して、マリオールが輝に問いかけた。
「こいつは何なんだ?」
「インキュバス、淫魔と呼ばれる悪魔です。ですが……どうやら力は声だけのようですから、ランクで言うなら下級淫魔です」
淫魔。
その美しい姿で人間を惑わし、声で陥れ、視線で殺す、と言われている、もっとも誘惑を得意とする悪魔だ。だが言葉通りの容姿端麗、美しい声、強い視線を全て併せ持つような淫魔はごく一握りだ。そんな淫魔は上級淫魔と呼ばれている。輝は数少ない上級淫魔を知っている。だが、二人の前で足が動かず立ちつくすリサはそれほど上位ではない。どちらかというと、伝説の人魚であるセイレーン、歌声で旅人を海に引きずり込むという生物の方に近い。
「なるほどな。予想どおり、下っ端ってことか。ならいくらでも替えがいるわけだ。だから、名前を呼ばないように呪縛をかけることも容易いものなわけだ」
「愚かな人間よ」
リサが鼻で笑う。
「我が主人たちを、甘く見るではないわ。分からぬか、これはゲームだ。我も、お前たちも、あのお方たちのゲームの駒に過ぎない」
「悪魔はそんなもんや」
輝は呟いた。リサの嘲笑もまったく気にならない。
「欲望のままに動く。それが悪魔や……欲望が悪魔の本性や。違うか?」
冷たく、アルディシンに吹き荒れる嵐よりも冷たく、輝が言い放つ。そして、ゆっくりと立ちつくすリサの前まで歩いていき、右手をリサの喉元に当てた。その思いもせず冷たい感触に、リサは身動ぐ。
「何を……」
「……この者の声を、滅せよ、滅せよ、滅せよ!」
呪文を輝が唱えると、微かに右手が輝き、リサの喉に吸い込まれた。そして輝はそれを確認してから、二三歩下がる。マリオールが神々に何かを囁いた。
途端。リサの身体が崩れ落ちた。自分の意思で身体を動かしたというより、支えを無くした枯れ木が倒れるように座り込んだ。リサは喉を両手で押さえ、声にならない悲鳴を上げて、数瞬経って喉の奥から血の塊を吐き出した。
輝も、マリオールも、黙って見つめていた。
リサは喉を押さえながら二人を見上げて、どす黒い血で汚れた唇を、何事か言うように動かし、そして睨みつける。
だが、輝とマリオールは相変わらず黙ったままだ。
静かな風が吹き抜ける。凍てつくような寒さは変わらない。
やがて、リサの姿に変化が現れた。背中の一部が盛り上がり服を突き破り、姿を見せたのは、漆黒の骨のような物体。それも2カ所からそれぞれ4、5本、急速に姿を見せた。生えた場所は同じだが、生える方向は違っている。その間を覆うように、あっという間に半透明の膜が生まれた。
それは羽だった。
鳥の翼よりも、コウモリの羽に良く似た羽。その羽は、あっという間にリサの身長ほども成長し、不意に空を叩いた。数度空を叩くと、リサの身体は重力に逆らって、ふわりと地面から浮き上がった。リサの視線は相変わらず二人を捕らえている。
二人は黙って見送った。憎悪に覆われたリサの目が、リサの姿が見えなくなるほど、小さくなり遠ざかっていった時、マリオールが呟いた。
「ザナール……行き先を知りたい」
マリオールにはその命に対する答えがあったのだろうが、輝には知る術がない。マリオールは輝に向かって、ニヤリと笑って、
「ザナールにあいつの追跡を頼んだが……さて、どうする? 下っ端は退散したが」
「まずはワイリエ・マリエラに会わないといけないでしょうね。それが当面の目的だったんだから。彼女に聞けば、何か分かるかも知れない」





薄暗い部屋。
調度品もなきに等しく、ガランとしている。だから、余計に寒く感じられるというものだ。だが、まったく気にした様子も見せず、少女はいる。
古びた円卓。添えられた2客の椅子。
2客の一つに、少女は座っている。
6歳か7歳かという、幼い少女だ。来ている服はアルディシンの民族衣装である。よく手入れさている黄金の美しい巻き毛は腰まで達し、灰白色の双眸は大きく見開かれ、薄暗く寂しい印象の部屋を見回していた。椅子は子供向きのものではないので、少女の足は床についていない。少女は何をするでもなく、椅子に座ったまま、床に届かない足をブラブラさせていた。
少女は不意に天井を見上げた。だが相変わらず足はブラブラさせている。
凍りつくような外気が吹き込み、少女の見事なまでの黄金の巻き毛を揺らす。
少女が見つめる先は、確かに天井だったはずだ。はずだったのに、少女が見つめているそこは大きく口を開き、天井とは違う色合いを見せていた……どんよりと曇ったアルディシンの冬空が、そこには広がっていた。
天井に大きく開いた穴の中に何かの姿が見えた。そして、足をブラブラさせている少女の前に、姿を見せた何者かが落ちてきた。
何者かは少女の足下に崩れ落ちた。その背中にはコウモリのような羽がついている。そしてやっとの思いで顔を上げたことで、それが女性だと分かる。口の端には、血が渇きこびりついている。少女はあどけない表情で、問いかけた。
「どうしたの?」
少女は、一連の不可思議な出来事にまったく動じる様子も見せず、動じるどころか、まるで楽しんでいるような様子で、顔を上げている女性の顔を見つめた。
「もう。寒いんだから、閉めてね」
少女が女性から目を離さず、右手を上げて小さく振ると、天井に開いた穴は音もなく、閉じた。吹き込んでいた冷気はあっという間に姿を消す。
「何か、あったの?」
愛くるしく微笑みながら、少女は問う。女性は何とか少女を見据えながら、声を上げようとした……が、唇は動くものの、声は発せられない。女性は必死で声を上げようとするが、少女の言葉がそれを制した。
「リサ、なんか臭うよ? エクソシストの臭いが」
少女とは思えぬ笑みを、唇に含んで少女は続ける。
「それから年寄りワイリエとは違う臭いがするわね……うん、嗅いだことのある臭いだねー、あ、レタニエ? ハルディナントが探し回ってるのに、ワイリエのところに来たの? 神楽坂も一緒だったんだ」
リサは首を縦に振った。
「やーっぱり。レタニエはいるわけね。それも結構な力なんだ。その上、神楽坂と手を組んだってことかな?」
リサはもう一度、首を縦に振った。
少女はブラブラさせていた両足をそろえ、勢いをつけて椅子から降りて。
でもね。と言葉を始めた。
「ワイリエは重要な駒って、確か教えたんじゃなかった? だから大事に扱えって。リサ、分かっていたでしょ? えっーと、人間みたいに言うなら、敵前逃亡って言うんだよね? よくないよねー。どうしようもないときは、一つ方法を教えてあげたでしょ?」
リサは動かない。
いや、動けないのだ。顔には恐怖が浮かんでいる。少女はまったく意に介さない。
「困った時には、ワイリエに自殺の暗示をかけてきてって言ったよね? ああ、その声じゃ無理だったのね……声がなくなったら、リサには用はないわね」
少女の明るく告げた言葉は、リサにとって死の宣告だった。
声にならない悲鳴は、断末魔の叫びであっても、少女の耳すらも届かず。
少女は左手を染める鮮血を、その小さな舌でちろりと舐めて、呟いた。
「ゲームは終わりってことかな? ……やだなぁ、結構楽しめたのに」





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