凍れる雪の狭間で 10






「やはり、ここでしたか」
輝が呟いた。
ワイリエ・マリエラを探す時、輝が真っ先に思い浮かんだのは、最初にこの館を訪れた時、リサに連れられワイリエと会った部屋だった。
赤々と燃えている暖炉の火、前に置かれたロッキング・チェア、それに座る老婆。そこまでは前に来た時と同じだった。だがロッキング・チェアに座る老婆の様子がおかしかった。輝は思わず問いかける。
「ワイリエ・マリエラ?」
側に行こうと足を踏み出そうとした輝を、マリオールが止める。
「待て……双子が何か言ってる」
「双子?」
「金属のエフォーと土のリフォーの双子だ。何がおかしい?」
輝には見えない者たちとマリオールが会話している間、輝はワイリエを観察する。
輝の場所からは、ロッキング・チェアに座るワイリエ・マリエラの横顔しか見えない。二人も侵入者がいるというのに、老婆はまったく気づいていないようだ。何かブツブツと呟いている。輝はそれを聞き取ろうと耳を澄ました。
「わしは待てばよい……リサが連れて来る……わしはここで待つ……」
「ワイリエの様子が変です」
輝の言葉に、会話を終えたマリオールが強く頷いた。
「見りゃ分かる。呪文をかけられているみたいだな。あの下っ端がかけた呪文じゃない。違うところからかけられている……下っ端はこれを維持するためにいたんだろうな」
と足を進め、ワイリエの前に回り込み、ロッキング・チェアの前で跪いた。
「ワイリエ・マリエラ。私が分かりますか?」
静かな口調にワイリエは微かにマリオールを見た。ぼんやりとしていた双眸が不意に焦点を結んだ。
「フェオル……ではないかえ? おお、久しいの……ミサリナは元気か? ハンナは……ハンナは……?」
誰かと間違えている。輝は気づいたが、マリオールは動揺の色すら見せず、
「ワイリエ・マリエラ。声が聞こえませんか? エフォーとリフォーの声は?」
「……エフォーとリフォー? さて、久しく声を聞かぬが……」
「やばいな」
マリオールは小さく呟いて、輝を見た。
「これから術を施すから、少し離れていろ。これはオレの専門分野だ」
「……分かりました」
輝が部屋の入り口まで離れたのを確認して、マリオールはまたぼんやりとした表情を浮かべているワイリエに声をかけた。
「ワイリエ・マリエラ、手を見せて頂けませんか? そのトル・ビフィリアの指輪はどなたからいただいたものですか?」
マリエラはのろのろと手を差し出し、マリオールがその手を押し頂く。
「……これはワイリエ・ラルフィーナがロールン3世殿下よりいただいた、最初に採掘されたトル・ビフィリアだそうな……代々のワイリエが受け継いできた」
以前、ワイリエ・マリエラに会った時、その指に輝いていたトル・ビフィリア。不意に輝は前に自分がその輝きに目を奪われたことを思い出した。
それにワイリエ・ラルフィーナの名前。
何か、ある。
輝が声を上げようとしたその時、マリオールがワイリエ・マリエラの手を握ったまま、小さく呟いた。
「金属の神たるエフォーよ、土の神たるリフォーよ。我、レタニエ・マリオールが依する。汝らが生まれしこの宮を、始まりの神のもとへ戻せ」
マリオールの両肩が微かに輝くのを、輝は静かに見つめていた。柔らかく輝いた2つの光はあっという間に収束し、ワイリエのトル・ビフィリアに吸い込まれたかと思うと。
ピシッ。
小さな音ともに、トル・ビフィリアが砕けるのが見えた。





「大公殿下?」
突如足を止めてしまったロールン7世の様子を、警備担当の武官が訝しむ。執務室から自室に下がる途中の廊下で突然立ち止まると、さすがにおかしいと思うだろう。
「……いや、何でもない。すまないが、今日の謁見はすべて断ってくれ。そうオートラルに伝えてくれないか?」
「え? 午後」
2時からハレシュン伯爵への謁見がございます。
執務室を出る間際、武官の前で執事が言っていた。武官は思い出して言ったのだが、思わず自分の立場を思い出して、詫びる。
「失礼しました」
「いや、いい。少し気分が優れないから、部屋にいると医者はいい」
「分かりました」
武官は最敬礼をして、大公を見送った。
廊下の突き当たりのドアを開けて、大公が入っていくのを確認して、踵を返した。
謁見をキャンセルして、自室にこもることなど滅多にないことだが、武官風情が主人のプライベートにまで立ち入るのはさすがに遠慮した。
「えっと、オートラル執事に伝えないと」
だが、武官が主人ロールン7世の姿を見たのは、これが最後になったのだ。





ドアを閉めて、大公は考え込む。
廊下を歩いていた時、武官には聞こえず、自分だけに聞こえた微かな音。
あれは間違いなく、トル・ビフィリアが砕けた音だ。
自分たちが力を蓄え続け、眠り続けたワイリエのトル・ビフィリアが、消滅したとしか思いつかない。
「……ハンナ、これでもお前はこのゲームを面白いと感じているのか?」
だがその独白は、誰にも届かない。





神田は、データを打ち込み終わったパソコンの画面をぼんやりと眺めていた。
画面の中央で赤く点滅する"recognition(承認)"の文字。
『本気ですか?』
『冗談で言えるか、ボケ。とにかく言うた通りにしといてくれ』
会長の言うことはいつでも間違いない。だが、輝が言っていたのはある意味、『敵』に手の内をさらし、切り札の一つを喪うことを意味する。
それでも。
そうしてでも、輝は帰りたいのだ。
一刻も早く、愛する人の元へ。
『神田さん、今度来る時は、輝ちゃんを引っ張ってきてね』
会長夫人の一言に、神田は力強く頷いた。
交わされた約束は、厳守の約束だった。





大気圏と宇宙の狭間。
一つの衛星が漂い続けている。
かつて冷戦と呼ばれた時代に、各国は宇宙に無人衛星、有人衛星を競って打ち上げた。いわゆる宇宙競争だ。漂い続ける無人衛星はソ連が宇宙に送り続けた遺物の一つだ。一度もメンテナンスを受けていないので、外装も幾分古びている。
衛星内部では、ここしばらく起動した様子など絶えて久しかったはず……だが。
今や、全ての電源が入り、翼にも似たパネルをゆっくりと広げつつある。
誰も見ることのない内部のコントロールパネルには、文字が映し出された。
『recognition program、 stand by』





「ここは……?」
微かに息を吐きながら、老女は目を開いた。身体を起こそうとするのを、マリオールが支える。
「あなたの館です……トル・ビフィリアを砕いたので、一瞬だけですが、気を失っていたようですね」
「……そのようだの」
老女は深く溜息をついて、マリオールを見つめた。
「……久方ぶりに、声を聞きましたぞ。ゼキーナの優しい声を」
「そうですか。じゃあ、オレのことも?」
「うむ、聞いた。稀代のレタニエだそうな……迷惑をかけた」
深々と頭を下げるワイリエ。静かに見つめるレタニエ。二人を輝はただ見つめていた。
やがて、マリエラは顔を上げて、輝がいるのを確認した。そして哀しそうに微笑みながら、言う。
「残念なことに……全部覚えている。自分がしたこと、全て……口惜しいことだが……あなたに語ったことも全て」
「そうですか」
「今度のことが終わったら……責任をとらなくてはのぉ……」
「……」
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、部屋に響いていた。沈黙に続いて、老女は立ち上がった。
「レタニエ殿。わしに出来ることは何でもしましょうぞ。何をお望みか?」
老女でありながら、背筋を伸ばして立つ様子は、往年の美しかったであろう時代を連想させた。それを見つめながら、マリオールが穏やかに言う。
「あなたはワイリエ・ラルフィーナのトル・ビフィリアに捕らわれていた。加えて何者かに強い暗示をかけられ、リサ・フォトナーと名乗るインキュバスはその暗示を維持し続けていた。間違いないですね」
「いかにも」
「草のゼキーナの声が聞こえるほどのワイリエがなぜ、そのようなことになったんですか? それにアルディシン全体を覆う、この暗い雲は何なんですか? ずっと精霊たちが不安がっているんです」
輝は眉をひそめた。マリオールの言葉はその真意を測りかねたのだ。マリオールは輝の顔を見て、説明する。
「もう何年も、アルディシンの上には暗い雲があった。それも神たちから聞いたことだ。だが覆うほどではなかった。常人には分からないだろうが、言い知れない不安を感じさせる雲だ……だがその面積を広げ始めたのはここ一年のことだ。半年ほど前からアルディシン全体を覆い始めた」
「おそらくは、マータ姫が亡くなった頃じゃの」
ワイリエが言葉をつないだ。マリオールが目を細めて、
「マータ姫……とは?」
隠遁生活とも言える田舎生活を送っているマリオールには、そういう中央の世情に疎い。ワイリエ・マリエラが続ける。
「神楽坂どのにも説明したが、名家の一つ・ミオ家の長子であったマトリエナ姫の呼び名じゃて。かつての大公の血筋であるミオのマトリエナ姫と、やはり公家の血筋であるハレシュンのロナルフ殿の婚約は、マトリエナ姫が生まれてすぐに決められていた。しかし20歳の誕生日を迎える直前に、突如なくなった。病死とされているが……実は、不審死であった……亡くなる少し前に、ハレシュン家との婚約を破棄し、大公殿下との婚約という話があったという」
思いもしなかった話に、輝が首を傾げる。
「大公と?」
「だが、その話には続きがあっての。ミオ家の意向とは違い、マータ姫は婚約破棄を断固拒否したという。理由は分からぬが、ハレシュン家のロナルフ殿に義理立てしたか……」
「……なるほど」
家とは違い、本人は嫌がった。
となると、親の押しつけた政略結婚を、マータ姫は実は望んでいたという意味を持つ。だが、確信は持てない。
芯だ人間の気持ちを計るほど、難しいことはない。
「……優しい男らしいな。ナルオンの話だと」
マリオールの突然の言葉に、輝は聞き返す。
「ナルオン……とは?」
「木の神ナルオンだ。ハレシュン伯爵ロナルフは園芸が趣味らしい。ナルオンにとってはいい人間だ。とはいっても……」
「悪魔はおる。このアルディシンに。それが、アルディシンを覆う、暗い雲の正体よ」
ワイリエ・マリエラの言葉が、再び空気を冷やした。
「おそらくは王宮に。それも二人」
「二人?」
「一人ではないんですか?」
続けざまの輝とマリオールの言葉に、ワイリエは小さく頷いた。
「二人……いや、リサを入れて3人か。二人とも人として、潜り込んでいる……わしも最初はきづかなんだ。一人は……私に呪いを込めたトル・ビフィリアをあやつがはめた者だが……いかんせん、どうすることも出来なんだ」
「誰なんですか?」
「……ハンナ。わしの孫の子よ」
老女の顔に言い知れない哀しみと苦しみが浮かんだのを、輝は見逃さなかった。だが、老女の感傷に今はつきあうわけにはいかない。
時間が、ないのだ。
「もう一人は?」
「……アルディシン大公ロールン7世ハルディナント殿下。あの方じゃよ」





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