凍れる雪の狭間で 11






「失礼いたします。殿下」
トール・オートラルはノックをして、扉の向こうに声をかけたが、返答がない。オートラルは少し待って、もう一度ノックするが、やはり返ってくるはずの答えがない。
先ほど大公付きの武官がやってきて、午後に予定されている謁見をすべてキャンセルしたいと殿下が仰いました、と伝えてきた。
トール・オートラルは大公付きの執事だ。公家の内々を取り仕切って38年、仕えた大公はマノシン4世、シュレオン2世、そしてロールン7世と3代にわたる。来年の夏には隠居し、次席執事を勤めている長男に跡を譲ろうと決めているが、それまでは今まで同様実直勤勉に、名誉ある大公付き執事の仕事をこなしていこうと決めている。
オートラルが大公付き執事となって30年という月日の間、様々なことがあった。最初に仕えたマノシン4世は、どちらかというと凡庸な人物で、大きなガラス温室を造り、そこでのガーデニングと、時折訪れる古物商から、貴重と言われる古銭を買い集め眺めるのが好きな、大公だった。
マノシン4世が治世7年で亡くなり、男子がなかったために、弟のシュレオン2世が立った。勤勉に国主として執務を行いながら、一方で非常に家庭的な人物で、オートラルは同世代のこの大公が大好きだった。妻の妹に子供を産ませるという『過ち』を起こしたが、それは人間なら誰でもすることだと、オートラルは割り切っている。とはいえ、謁見があることを知っていながら、娘たちを庭園で遊ばせていて、謁見をすっぽかしたことは何度もあったのだが。
だが今の大公ロールン7世がどういう人物なのか、オートラルには計り知れない。とらえどころがないの一言につきるのだが、謁見をすっぽかすことは一度もない。謁見が急遽取りやめになったのはたったの一度。体調不良で医者から休養を勧められてやむを得ずということだけだ。
今日、予定されている謁見は3件。
2件の謁見は地方住民からの陳情を受けるだけだから、オートラルが代行することは容易いし、どうしても大公にという話だったら、日にちを替えればよいのだが、最後の1件だけはかなり問題がある。
謁見を求めているのが、ハレシュン伯爵だから。
アルディシン第1の名家であり……いずれは大公の姉君ルクレースイ公女の夫になる人間であり、ロールン7世が独身で、男子をもうけていない以上、第一位大公位後継者となるであろう人間だ。
そのハレシュン伯爵との謁見を断るとなると、公家とハレシュン家の関係は微妙になりかけない。それでなくとも、ここのところ大公は伯爵と同席することを避けているように思われる。やはり、ルクレースイ公女のことがあるのだろうと、オートラルは予想しているが。姉姫との『確執』は、王宮に仕える者なら誰でも、知っていることだから。
とはいえ、公家とハレシュン家のことなど、大公に進言するまでもなく分かっているだろうが、だがあえて進言した方がよい。もし体調不良ならなおのこと、医者の手配もしなくてはいけない。オートラルはそう考えて、大公の私室の扉をノックしたのだ。
3度ノックしたが、返事はやはりない。
「殿下、失礼します」
オートラルは声をかけて、扉を開けた。
「殿下?」
オートラルの声は、静まりかえった大公の私室にむなしく響いた。
大公失踪というとんでもない情況が、護衛武官隊長の耳に入るまで、10分もかからなかった。





 真冬のこの時期、薬草は深い雪の下に眠っている。掘り出すとしたら2メートル近くも掘らなくてはいけない。だからエレーナは秋の間に収穫できる薬草を出来るだけ収穫し、家の中で乾燥させて使う。
背丈の長いマイルア草などは天井近くの梁からぶら下げても、床に近くなるほどの長さを持つ。エレーナには届かないが、息子のマリオールはいつも頭がかすめてしまう。マイルア草は強烈な臭いを持っていて、マリオールはいつもマイルア草の臭いをさせながら、ぶつぶつ文句を言っていた。
『もっと隅っこに寄せられない?』
『臭いを飛ばすには、一番早く乾燥させたいでしょ? ここが一番なのよ』
『ああ、そうですか』
そのマイルア草を取ろうと脚立を真下に持ってきて、エレーナは脚立に上ろうとした、その時だった。
呼ばれた気がした。
周りを見回すが、誰かいる様子はない。
エレーナはマリオールにレタニエを譲るまで、レタニエであった。
だが、レタニエであった時から、否、実母からレタニエを譲られた時からすでにエレーナは神々や精霊たちと会話するレタニエの『能力』を喪っていた。子供のころは、微かに聞こえていたのだ。だが、成長するにつれて、その能力は失われていった。実母もそうだったようだ。レタニエの『能力』は薬師としての能力しか残っていないのだ。エレーナはマリオールを生むまでは、そう信じていた。
とはいえ、かつてはレタニエであり、幼い頃は精霊たちの言葉を聞き、見ていた身だ。誰もいないのに、呼ばれたような感覚。それは神々の呼びかけのように、エレーナは感じた。
「……困ったわね。マリオールがいたら、分かってあげられるのに。ごめんなさいね」
何もないところに一声かけて、エレーナは再び脚立に上ろうとする。
次の瞬間。
カタカタと玄関の扉が音を立てると、あっという間に勢いよく激しい風音とともに開いた。と同時に身体が強ばるほどの冷気が吹き込む。あまりの風の強さに、エレーナは目を閉じた。
冷気は相変わらずだったが、風が幾分収まったのを肌で感じて、エレーナは目をゆっくりと開けた。
そして、見た。
玄関に立つ、人影を。
だが、外の雪の反射光で人影が誰かは分からない。
「どちら様ですか?」
エレーナの呼びかけに、人影はゆっくりと口を開いた。
「……ここは、マリオール・ジェナイソンの家だな」
若い男の声。だが顔は分からない。エレーナは情況が飲み込めないまま、頷いた。
「マリオールは出かけています」
「……あなたは?」
「母ですが……どちら様でしょうか?」
男はゆっくりと家に入り込んだ。長靴についている雪を払いもせずに。それがなんだかエレーナの心の片隅に引っかかった。
「出かけているのか……なるほど好都合」
「え?」
エレーナの前まで男は進んできた。
そこまで来て、エレーナは初めてその男の風貌を確認できた。
美しい顔立ち。
黄金の髪、純青の双眸、雪のような白い肌。
身につけているものはどれも上等そうなものばかり。
その風貌に魅入られたように、エレーナは自分の身体が動かないことに気づいた。驚き、身体を動かそうとするエレーナの額に、美しい男は流れるような仕草で左手を添えた。
「アルディシンには2人もいらぬ。一人で充分だ……あなたはそのための切り札になる」
意識が不意に遠のいた。
その時、エレーナは初めて悟った。
さっき聞こえたのは、『警告』だったのだ。精霊たちが必死でエレーナに呼びかけたのだ。だがエレーナには、それが理解出来なかった。
ごめんなさいね……精霊たち……マリオール。
エレーナの身体がぐらりと傾ぐのを、ハルディナントは容易く受け止めた。そして小さく呟いた。
「……レタニエを残すか、ワイリエを残すか……それによって、ゲームの最後が変わるか」





 風が凪いだ。
ゆっくりと辺りを見回すと、どこかの中庭にいるようだった。周囲は軒が伸ばされた回廊が取り巻いている。
マリオールが、呟いた。
「消えたか……どのあたりだ? ……そうか、王宮の外れか。あの小物、王宮の外れで気配が消えたそうだ。ザナールにはそれ以上探せなかったそうだ」
「そうですか」
「とりあえず、大公に会おう」
とマリオールが歩き始めた。
輝は先に歩き始めたマリオールを慌てて追いかける。
「ここは?」
「宮殿の西側だ。とはいえ外れだから、武官もいないだろう? 宮殿のど真ん中に降りたら、武官に見つかる可能性が高い。それは面倒くさいしな」
それもそうや。
輝は納得する。
ワイリエの館から宮殿まで風神ザナールの力を借りて移動しながら、マリオールは一つの物語を見せてくれた。
それは真実の、かつてあった哀しい物語。
時間がない、急いで宮殿に向かうという輝に、ワイリエ・マリエラは一つの提案をしたのだ。
『わしがあなたがたに直接話すより、より真実を神々は見せてくれるだろうて。ザナールに聞かれるがよかろう』
ワイリエ・マリエラは薬草のゼキーナに語り、ゼキーナはマリオールに語る。ゼキーナが語って見せる『真実』をマリオールは輝にも見せたのだ。





 17年前、妹・ヒルディーシエが生んだ子は男子であった。その数ヶ月前に姉である大公妃マルローネイが生んだのはルクレースイ公女、女児であった。
ヒルディーシエの妊娠が発覚した時、大公が公言した『男子ならば公家へ』はその言葉のまま実行された。
生後1ヶ月という幼子を抱えて、大公は祝宴を開いた。大公妃に遠慮してか、3ヶ月前に行われたルクレースイ公女のそれより遙かに規模は小さく、まして産後の肥立ちが悪かったヒルディーシエは出席していない。
公家の子供の祝宴は、あのロールン3世の時と同じで、今も変わっていない。
いや、変わったことが一つだけ。
レタニエが姿を消したことだけだ。
司教が幼子に洗礼を施し、キリスト教会の加護を受けたことを示し、そののちにワイリエが幼子の将来を占った結果を披露する。
3ヶ月前のルクレースイ公女の際は喜んで出席した司教は、出席を拒んだ。
出席を拒まれたということは、いわば『私生児』であるハルディナントが洗礼を受けられないことになる。
かつて中世ヨーロッパでは、洗礼を受けていない者は殺されても文句の言えない者とされたが、今ではそのような考え方が廃れて久しい。父・シュレオン2世も司教の欠席は咎めなかった。
ワイリエ・マリエラはもちろん出席するつもりだった。
子供には罪はない。
せめて、ゼキーナが自分に与えてくれる預言だけでも、子供の将来に希望を見いださせてやりたかった。それは子供のためというより、穏やかな性格で国民に好かれているシュレオン2世のためだった。
だが、ゼキーナがワイリエ・マリエラに与えた預言はなぞめいたものだった。
『大公より生まれし男子は、大公の子にあらざる者。
人より生まれ、人にあらざる者。
トル・ビフィリアに育まれ、2つに別れた者の一つなり。
大公となりて、国を守りし者にて、国に災いをもたらす者なり』
その予言のあまりの不可思議な内容に、ワイリエ・マリエラはその全てを祝宴で披露するわけにいかず、仕方なく「大公となりて、国を守りし者」
と告げることしか出来なかった。しかし大公に黙っているわけにもいかず、ワイリエは祝宴のあとで、予言の全てを報告した。大公はだまってワイリエの話を聞き、深い溜息とともに、
『……それでも、私の子には変わらぬ。ワイリエ、あなたの予言は違えたことなどないけれど……それでも、違えて欲しいと願うことしかできない』





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