凍れる雪の狭間で 12






マリエラは、早くに亡くなった夫との間に、一人息子があった。
息子夫婦は事故で亡くなり、マリエラの孫にあたる5歳のルキエラが残された。マリエラはルキエラを引き取り、我が子のように愛おしみ育てた。
美女であったマリエラの血筋でありながら、ルキエラは決して美しいとは言えない風貌だった。だが、その優しく穏やかな性格は、誰からも愛された。そして、結婚した。
フェオル・クリント。王宮の武官であり、大公に謁見するため訪れたマリエラにつきそうルキエラと知り合い、やがて静かで穏やかな愛を育んだ。
誰もに祝福された結婚だった。結婚式にはシュレオン2世も出席した。マリエラは、ルキエラの結婚が分かって、神々に問うた。神々の答えは、マリエラを喜ばせた。
『そなたの血筋から生まれし幼子は、稀代の者となる。稀代の者として、アルディシンにその威光を見せる』
マリエラは、この予言を、『稀代のワイリエ』が、ルキエラより生まれてくると思ったのだ。だから喜び勇んでルキエラとフェオルに告げたのだ。
預言の意図は、今思えば全く違うものであったのだが、そのころのマリエラたちには、分からなかった。
5年後にはルキエラの妊娠が分かり、幸せ一杯だった……はずなのに。



マリエラはあの日見た光景を、一生忘れない。
ルキエラの部屋から悲鳴が聞こえ、慌てて駆けつけた時見たもの。
ルキエラのベッドのすぐ横で、横たわるフェオル。その周りには、じわじわと血の海が広がってゆく。
ベッドの中でもがく、ルキエラ。
駆け寄るマリエラに、ルキエラは叫んだ。
「ババ様、私を殺して! この子を殺して! この子は」
白いシーツは鮮血に染まり、それはベッドの側に横たわるフェオルのものか、ルキエラのものか分からなかったが、ルキエラが産気づくにはかなり早すぎた。
まだ妊娠六ヶ月にも満たなかったから。
錯乱しているルキエラを宥めようとした時。マリエラは信じられないものを見た。
子どもがいるはずのルキエラの下腹部。ぼこぼこと波打ち、うごめいている。それはルキエラの意図とは明らかに違っていた。
ルキエラは痛みに叫びながら、その下腹部を何度も何度も拳で叩いた。
「ルキエラ!」
「殺して!」
次の瞬間。
ルキエラが一層高い声で叫んだ。
時を同じくして、波打っていた下腹部が一瞬動きを止め。





あまりの『光景』に、輝は言葉を失った。
そしてルキエラの姿が、遠く日本に残してきた愛しい妻の姿が重なった。
そんなことあるか。麦子は大丈夫や。
自分に言い聞かせる。
ルキエラは恐怖の表情を浮かべたまま息絶え、母の腹を中から割いて生まれた赤子。この世に生まれ出た赤子がするように産声を上げることもせず、母親の血に濡れた姿のまま、ルキエラの腹の上で幾度かうごめいて……不意に姿を消した。
マリエラの元には、絶命した孫夫妻の、暖かさを残す遺体だけが残された。
『男だったらルード。女だったらハンナという名前にしようと思っているの』
幸せそうに微笑んでいた、ルキエラ。
寄り添う、フェオル。
二人と、『一人』を亡くしたマリエラの生活は一変した。
人と接触することを嫌い、大公への謁見もなくなった。心配したシュレオン2世が月に一度ほどマリエラの元を訪れるがマリエラは、大公とは会うものの他の者とは一切会おうとしなかった。
そうして、2年が過ぎた。





夏、だった。
アルディシンの夏は短い。
暖炉を必要としないのは1週間程度。火の入っていない暖炉を見つめながら、マリエラはずっと考えていた。
それはここ2年ずっと考え続けたことだ。
孫夫妻が死んでからずっと。
なぜルキエラは死ななくてはいけなかったのか。
そして……ルキエラの腹を破って現れ、すぐに姿を消した者。
ルキエラとフェオルが『ルードかハンナ』と名付けるはずだった、マリエラには曾孫にあたる者。
あれは、なんだったのだろう?
沈思に耽るマリエラの耳に、不意に声が届いた。
「ババ様?」
この館には、誰も人はいないはず。
だが確かに子供の声がした。マリエラが声の主を求めて振り返った。
部屋の入り口に、少女の姿が見えた。
「やっぱり。みーつけた、ババ様」
金の巻き毛、灰白色の双眸。着ているのはアルディシンの民族衣装だ。年齢は6歳ほどだろうか。マリエラは少女を睨みつけながら告げる。
「ここは、お前の家ではあるまい」
「そう?」
「家に帰りなさい。親はどうした?」
そう言って、不意に気づいた。
詰問するまで、その少女は近隣の子供で迷い込んで来たのだと、思った。
おかしい、ではないのか?
近隣の者なら、自分のことを『ワイリエ』『マリエラさん』と敬意を込めて呼ぶ。今は亡き孫の夫・フェオルですら、自分のことを『ワイリエ』と呼んでいた。
『ババ様』と呼んでいたのは、たった一人。
孫のルキエラ。
そう、ルキエラだけだったのに。
「母様も、父様も死んじゃったの。母様のおばあさんがいるだけだよ」
「……名は?」
「あたしの?」
灰白色の双眸を、楽しそうに揺らめかせて少女は応える。
「あたしは、ハンナ。母様がそうつけるって決めてたの。男だったらルード。女だったらハンナ。だから私の名前はハンナよ。ババ様」
これは、何者?
『男だったらルード。女だったらハンナにしようと思っているの』
ルキエラの言葉。
……それを知っているのは……誰?
一人しかいない。
それは、ルキエラが名付けようとしていた、赤子。
その赤子は……母を殺し、父を殺し……姿を消した。
間違いない。
心に刺さったナイフが怒りという痛みを伴いながら、じわりじわりと動き始めたような、感覚。
怒り。
哀しみ。
年経ても、抑制しようのない感情がどす黒く、自分からあふれ出ていくような……。
「お前は!」
ロッキング・チェアから立ち上がり、老女とは思えぬ素早い動きで、入り口に走った。
少女は動かず、自分の前に立ちはだかる老女を微笑みながら、見上げている。
「なあに?」
無防備にさらけ出された白く細い首筋に、マリエラはなんの迷いもなく、両手をかけた。そして渾身の力を込めて指を握りこんだ。
あどけない表情を浮かべる少女の顔が、苦痛に歪む。
「ババ……さまぁ……」
小さな小さな、吐息のような声が、少女の小さな唇から洩れた。
「くるしい……よぉ、ババ……さまぁ」
「お前が、ルキエラとフェオルを殺した! お前は何だ! ルキエラの腹を破って生まれた者だろう? 何のために! それに!」
怒りがこみ上げて、老女の喉をふさぐ。
まだ、言わなくてはいけない。老女は必死で息を吸い込んで、叫んだ。
「お前の姿はなんだ! あれから2年しか経ってない! なのに、その姿は」
「ババ……」
怒りにまかせて、マリエラは力を込める。
だが。
不意に、少女の大きく見開かれた灰白色の双眸をのぞき込んだ時。
『もうすぐ、あなたもパパよ、フェオル』
『そうだな。だが一人は可哀想だ。3人くらい欲しいな』
『まあ、フェオルったら。この子が無事に生まれてくれることを、神さまにお願いしましょうね?』
『もちろんだとも』
幸せに微笑み、会話を交わすルキエラとフェオルの姿が脳裏に浮かんだ。
そして少女の瞳から、涙が浮かび上がり、小さな頬に一筋流れ落ちるのを見た瞬間。
マリエラは思わず、両手の力がわずかに抜けたのを感じた。
その瞬間。
だらりと垂れていたはずの少女の小さな両手が、マリエラの右手に触れた。右手に両手を添えると、少女とはとうてい考えられる力で、少女の首もとから右手を引き剥がしたのだ。
その信じられない出来事に、マリエラは一瞬唖然としたが、すぐに残された左手に力を込めようとしたが、力は入らない。引き剥がされた右手を動かそうとするが、それも叶わない。
驚くマリエラを後目に、少女は左手もいとも簡単にひきはがし、一歩後ずさって、老女の手の跡が赤くついている自分の首筋をさすった。
「ババ様。この身体はもう少し使わなくちゃいけないから、大事にしてね?」
少女らしからぬ、妖艶な笑み。少女という姿と浮かべた笑みのアンバランスに、マリエラは本能的に禍々しく感じて、後ずさろうとしたが、今度は身体がまったく動かない。マリエラの困惑を知ってか知らずか、ハンナと名乗った少女は続けた。
「ババ様、ハンナは突然生まれたんじゃないよ? ババ様の、その」
とまったく身体を動かせないマリエラの手にはめられた、トル・ビフィリアの指輪に軽く触って、
「トル・ビフィリアの中で、ずーっと眠ってたのよ? でも、父様と母様が起こしてくれたの」
誰が、と言ったつもりだった。だが、声すら出ない。
「ババ様、父様と母様に言ったでしょ? ルキエラの子は稀代のワイリエになるって。だけど、母様はなかなか子供ができなかった。父様はずーっと思ってたのよ? 子供を、子供を!」
不意に少女の口から、かつてよく聞いたフェオルの声が溢れて、マリエラは畏れの表情を浮かべる。少女はその様子すら楽しんでいるように、言葉を紡ぐ。
「ルキエラの子供は、稀代のワイリエになるはずだ。そうワイリエ・マリエラが預言したんだから。それほどのワイリエならば、公家に今より一層食い込むことも出来るだろうし、ワイリエの父親なら、武官ごときで終わらずに、もっと高い位も思うがままのはずだ!」
止めて、と叫びたかった。だが次の瞬間、少女の声はフェオル以上に良く知っていた孫娘のものに変わった。
「ババ様の跡を継ぐ、ワイリエが生まれるはずなのよ。私は生まなくちゃいけない。でも、もう何年になるかしら、私たち夫婦が結婚して。子供が出来ないなんて……なぜかしら? 私のせい? 私の身体のせい? フェオルのせいかしら? ああ、神様、アルディシンの神様たち……いいえ、何でも良いから私に子供を授けてちょうだい!」
少女は畏れの表情を浮かべているマリエラの顔を見上げて、微笑んだ。そして今度は少女自身の声で言った。
「可哀想な父様と母様。だって何年も、何年も、子供が出来なかったら、私が出来た時の重さが違うでしょ? 絶対に、大事に大事に育ててくれるもの。二人には感謝しているわ。おかげで私はこんなに早く成長できたもの」
それに。と少女は続けた。
「ババ様にも、ありがとうって言わなくちゃ。だってハンナの役に立ってくれるもの。これからずーっとずーっと。ハンナの役に立ってね。トル・ビフィリアがババ様を捕まえているから。ずーっとハンナの役に立ってね」
そうして、ワイリエ・マリエラは、ハンナと名乗る少女の捕らわれになった。





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