凍れる雪の狭間で 13
「まったく、どういうつもりかしら! 家を出る直前に、病気? この前の宴の時は捜索指揮ですっぽかすし、その前は……」
ぷんすか怒ってみせて、ルクレースイは隣を歩くロナルフを見遣った。ロナルフは優しげに微笑んで、
「その前の謁見はあったよ。婚約を報告した時だね」
「そう。ロナルフには会うけど、私には会いたくないのね。ここ3ヶ月近くは同じ宮殿にいるはずなのに、姿すら見たことないもの」
さらりとルクレースイは言ってのけて、
「多分、というより間違いなく、私を避けてる」
「……どうかな」
ルクレースイの住まいは宮殿の西側にある。それより西、ほとんど別棟といっていい外れに母・マルローネイは住まいし、妹二人もそこに住んでいる。一方、大公の私室は宮殿の少し東側。
ましてマルローネイは婚礼の準備のために、昼前にはハレシュン家に入り、夕食を済ませて帰宅するという、ほとんど宮殿にいない生活を送っているのだから、ロナルフにしてみればルクレースイの『避けてる』という説明はおかしいと言いたいのだが、しかし黙っていることにした。だがルクレースイの愚痴は続いている。
「昔から、他人の顔色をうかがう、イヤなカンジはあったんだけど。おどおどしたってカンジじゃなくて、何でも全部知っているって顔してて」
「ルクル」
「昔、母様の侍女のエリヤが言ったわ。子供の顔してないって」
今日の謁見を中止したい。大公の具合が悪いと、大公付き執事のオートラルからお詫びの連絡が来たのは、ハレシュン家を出る直前だった。だから母親に会いに行くというルクレースイに同行することに急遽なったのだが。ロナルフの予定変更の理由を聞いて、ルクレースイの機嫌はすこぶる悪い。
「まったく……私たちの結婚式も欠席するつもりじゃないかな?」
「それはないと思うよ。何より、姉姫の結婚式だろう?」
「そうかな」
疑問を山ほど含ませて、ルクレースイはぼやいた。
「それでも欠席するような気がするのよ……」
「ルクル」
二人は廊下の角を曲がり、中庭に面した回廊に出た。
その時。
「もう! あのバカ!」
不意にルクレースイが叫んだ。
「……バカ!」
突然響いた女性の声に、マリオールは輝の肩をつかんで、物陰に引きずり込む。
「静かに」
囁いて、マリオールは辺りを見渡す。くすんだ大理石の灰白色と、庭の雪の純白色だけが、マリオールの視界に入った。だがすぐに視界の隅に、人影が入った。
「……あれは?」
同じようにのぞいていた輝がマリオールの耳元で囁いた。
「ああ……噂のロナルフどのみたいだな……ナルオンが喜んでいる。ナルオン、あれを捕らえられるか? ああ、そうだ……そうか、ルクレースイ公女か」
輝の知らない言葉で囁くマリオールを見て、輝はそれが神々との会話だと理解する。
「マリオールさん?」
「ハレシュン伯爵が契約したと思ってるんだろ? 本人に聞くのが一番じゃないか? 周りには誰もいないし。一緒にいるのは、ルクレースイ公女だな」
「え?」
ひそひそ話の間にも、2人は輝とマリオールに接近してくる。マリオールは視線で輝を促した。輝は小さく頷いた。
「よし。ナルオン、始めてくれ」
「ねえ、ロナルフ。私、前から気になってることがあるの。聞いてくれる?」
ひとしきり大公への愚痴を振りまいて落ち着いたのか、ルクレースイがロナルフの前に回り込み、顔をのぞき込みながら言った。
「ん?」
「父様のことなの」
「シュレオン2世殿下?」
そして、娘は父の隠したい過去を、いともあっさりとさらけ出す。
「父様は、ヒルダ叔母様と、なんであんなことになったんだろ?」
「……え?」
ロナルフは思わず聞き返す。
「えーっと、それはハルディナントのこと?」
「そうよ。どう考えても納得いかないの。父様と母様は『身分違いの恋』って言われるくらいの大恋愛で結婚したでしょ? それは父様にしてみれば気紛れとかじゃなかったと思うのよ……妊娠中の妻をほっぽりだして、夫が浮気するって話は、よく聞くけど、そういうことじゃないような気がするのよ」
「……とは?」
「ミリシやマシリの時、そんなカンジはなかったと思うのよ。それに、部屋には母様とヒルダ叔母様の写真が飾ってあったけど、父様はそれを見ても何も言わなかったのよ? 後ろめたいことがあったら、なんか言うんじゃないかな?」
「それは……」
ロナルフが応えようとした時、ルクレースイは何かの音を聞いた。
シュルシュルと、衣擦れのような音。だがそれはどんどん近くなり、大きくなってくる。ルクレースイの様子に、ロナルフも音に気づいた。慌ててルクレースイを抱き寄せる。
周りを見回すが、何の変化もない。音だけが聞こえてくる。
いつもの、回廊だ。
「なんだ? この音はどこから」
「ロナルフ、下!」
ルクレースイがロナルフの背後を指さす。慌てて振り返ると、床に敷き詰められた大理石の隙間という隙間から、植物が次から次へと芽吹いている。
「さっきまで、芽なんて……」
ロナルフの言葉の間も、芽はどんどんとその背丈を伸ばし、ルクレースイよりもロナルフよりも高くなる。ロナルフは思わずルクレースイを抱き寄せた。
「一体、どういうことだ……」
「囲まれた?」
伸び続ける枝は、互いの枝がぶつかると、絡みついて、また先へ上へと枝を伸ばす。あっという間に成長した木々は2人の周りを取り囲み、回廊の天井まで達して、その成長を止めた。枝を若葉が覆い尽くす。
それは、いわば緑の鳥かごだった。
「……なんなの?」
ルクレースイの呆然とした声に、ロナルフは目を細めて、手を伸ばしながら応えようとする。
「これは……ナルニトの木?」
園芸を趣味とするロナルフは若葉の葉脈を見ようと手を伸ばしたが、風もないのに若葉、否、木全体が意思を持つかのように、ざわざわと揺れた。ロナルフは慌てて伸ばした手を引っ込めた。
「ナルニト?」
ルクレースイもロナルフとは幼い頃から知っている。彼の趣味が園芸だということも。だから、望みもしない『園芸講座』につきあわされたことがあるから、園芸の知識は少しばかり持っている。
ナルニトは、アルディシンのどこにも生えている。寒さに強く、雪の下でも青々とした葉を茂らせる常緑木であるが、寒さに耐えられるように低く成長する。こんなに背高く成長しない。
第一.
「こんな異常なスピードでは、普通生えないんじゃないの?」
「ああ……」
だが、答えはすぐに出た。
「ナルニトの木は、木の神ナルオンが最初に作った木であると聞いたことはありませんか? ナルニトはナルオンの手足という意味もあることは?」
ロナルフでも、もちろんルクレースイでもない。
二人しかいないはずの回廊に、聞いたこともない声が響いた。
声は、緑の若葉の向こうから聞こえてきた。
すると、声のした方向の若葉がしゅるしゅると二つに別れた。絡み合った枝はそのままだが、外の景色が分かる程度にはなった。
ナルニトが作り出した檻の向こうに立っている、青年。
薄茶色の瞳、アルディシンには珍しい漆黒の髪。
年の頃は20代後半といったところか。
「……誰?」
「ルクル」
男の視線から隠すようにルクレースイを背中に庇って、ロナルフが男に問いかけた。
「何者だ。これは、お前がやったことか? ここがどこで、私たちが誰か承知の上か?」
厳しい言葉に、男はやんわりと微笑んで、
「もちろん。ここはアルディシン大公の宮殿で、あなたがハレシュン伯爵ロナルフどので、そちらの女性がルクレースイ公女と知ったうえです」
儀礼に則った最敬礼を、ゆったりとしてみせて、男は自己紹介をする。
「失礼しました。マリオール・ジェナイソンともうします。または……レタニエ・マリオールと」
「レタニエですって?」
「ルクル!」
ロナルフの制止も聞かず、ルクレースイはロナルフから離れ、柵となっているナルニトの枝に飛びつくようにしがみついた。もちろん、ナルニトはびくともしない。ただ、若葉がざわざわと音を立てた。
「レタニエってことは、あのレタニエ・アトエラの?」
「ええ、そうです。あのレタニエ・アトエラの子孫です」
「……レタニエ・アトエラとは、ロールン2世殿下の頃に、失脚した?」
ロナルフの言葉に、マリオールではなく、ルクレースイが興奮したように応えた。
「失脚! そんなものじゃないわ! 当時の大公妃を毒殺したのよ、ロールン2世に呪いをかけたのよ! ……ロナルフ、知らないの?」
「ああ」
思いもしない言葉にロナルフが戸惑う様子を見て、ルクレースイの興奮は一気に冷めた。
「知らない? 私は父様から聞いたのよ……レタニエのせいで、この国は間違った方向に傾いたと……」
「知らない、初耳だ」
「その『事実』は、公家とワイリエにのみ伝わっているようですね。ですが、もっともねじ曲げられた『事実』ですが」
「え?」
マリオールの言葉に含まれた意図をつかみきれず、ルクレースイが聞き返そうとしたが、マリオールはルクレースイの向こうに立つ、ロナルフを見つめて言った。
「時間が惜しい。その話は今度にしましょう。今は違う話を。伯爵、あなたにお話があります」
「……何だ」
「私よりも、こちらの方がよいでしょう」
とマリオールは振り返った。
カリュナーズ薬は、まだ効いてるみたいやな。
輝は右手を開いたり閉じたりしてみる。
身体はまるで傷ついていない時のように、輝の気持ちに従順に応え、動いてくれる。
『薬が切れたら……』
マリオールとエレーナが警告したが、輝には薬が切れたとしても、最悪の情況になるとは思えなかった。
あたりまえや。
オレには守るもんがある。
麦子と、腹の子。
これ以上、麦子を泣かすわけにはいかん。
そして輝は、ナルニトの檻の前に立った。