凍れる雪の狭間で 14






「初めまして、神楽坂輝ともうします」
典雅としかいいようのない仕草で敬礼してみせて、輝は声を上げた。
「早速ですが、お伺いしたいことが」
「待って」
制したのは、ルクレースイだった。
「もしかして、ハルディナントが招いたという、エクソシストとはあなたなの?」
「はい」
「失踪した、と聞いたけれど?」
「失踪……とは違います。伯爵家の近くで何者かに攻撃され、こちらのレタニエ・マリオールに助けられ、治療を受けていました」
静かな輝の口調に、ルクレースイは目を細めて、
「何者か……に?」
「ええ。そのことです、伺いたいのは。伯爵なら、何かご存じかと思いまして」
輝は言葉を切り、ロナルフの反応を見た。
静かに立っている。というより、言葉を無くして、立ち尽くしている。
輝は言葉を続けた。
「あれが何で、何のために動いているのか……そして、誰と契約しているのか」
ロナルフは立ち尽くしたまま、視線をナルニトが生えた大理石の隙間に視線を落とした。そして一つ大きな溜息をついて、
「あれは……我が家の書庫の、片隅にあった」
「ロナルフ、あれって?」
視線を落としたまま、ロナルフは続ける。
「本だ。古びた本……表紙には、剥げ落ちかけた金箔の押し字で『秘められたもの』とあった。見つけたのは子供の頃だ。その時は内容も分からず、書庫に戻した。だが、8ヶ月前だ……夜中に呼ばれて、目が覚めた。呼んでいたのはあの本だった。言われたんだ。望みを言え、しかれば叶えてやろう。汝の望みを言え、と」
輝は思わず目を閉じた。そして、目を閉じたまま、
「あなたは何を望んだんですか?」
「……結婚を。マータとの結婚を。それを邪魔する者の……排除を」
「違うな。多分、あんたは言ったんだ……大公が死ねばいいと」
マリオールの突然変わった口調を咎めず、ロナルフはゆっくりと頷いた。だが、ルクレースイが割って入った。
「当然じゃない。ハルディナントがマータを奪おうとしたのよ。ロナルフがマータを愛していたことは、みんな知っているわ」
マリオールは不意に宙を見つめて、すぐにルクレースイを見つめた。
「そうだな。どんなにワガママなお嬢様でも、愛しているならな。だけど、大公との結婚もひけらかしてた……と、風の精霊が言っているがな」
「え……なに?」
「……さすがはレタニエだ、ワイリエのように、物事を神々と対話して知るのか?」
ロナルフの言葉は、肯定を意味していた。マリオールは続ける。
「だが、ミオ家の中では、こうも言っていたそうだ。私には幼いときからロナルフという、許婚者がいる。今までハレシュン家に嫁ぐという前提で、準備を進めてきた。今さら大公とはいえ、横槍を入れるのはおかしい、それに自分はロナルフに嫁ぐと決めている」
「え?」
ロナルフが初めて、マリオールの目を見た。マリオールの言葉は続く。
「ワガママお嬢様が、当然この話を受けると思っていたミオ家は大混乱。元々はミオ家から言い出した話だったから、なおさらだろうな。元公女のばあさんは寝込む、お姫様はどんな説得もガンとして受けつけない。あげくにミオ伯爵が言い出した。親の言う事が聞けないのなら、家を出ていけ。この家に姫などいないと」
ルクレースイは驚いた様子で、左手で口を覆う。
「マータ……もしかして」
マリオールが小さく頷きながら、ルクレースイに言った。
「ルクレースイ公女は、マトリエナ姫と幼なじみだったな? 風はそう言っている」
「ええ……だったら、マータがなんであんなことを言ったのか、ようやく分かったわ」
ルクレースイの言葉を、マリオールは黙って聞いている。ルクレースイは続ける。
「マータが亡くなる少し前に言ったって、ロナルフが教えてくれたの。『大公との結婚が決まった、あなたとは婚約破棄』だって……でも、そんな話があったのは知っていたけど、決まってなかったはずなの……私は発表される直前に、マータの死があったからだと思っていたけど……」
ルクレースイは背後に立ち尽くすロナルフをチラリと見て、
「レタニエの話で、ようやく分かった……マータはなんとしてでも、あなたと結婚したかったのよ……だからミオ家から奪ってでも、あなたに引っ張って欲しかった……そうよ、マータはそんな人だったじゃない。それに亡くなる少し前に、私に言ったの。『私は、私のやり方で、私の幸せをつかむから』って」





面と向かって、愛していると告げることは、生まれ持った、そして育まれたプライドが許さない。
けれども、定められたとはいえ、婚約者を、確かに愛していたのだ。
『あなたとは、婚約破棄になるかもよ?』
あれは彼女なりの、精一杯の、愛情表現だった。
ロナルフは呆然と、マリオールとルクレースイを見つめて。
彼の頬を、涙がつたう。
ロナルフは、声もなく、泣いていた。





「……声だけですか。姿は?」
輝の静かな問いかけに、ロナルフは頬の涙を拭いながら、
「その時はなかった。だが大公は死なず、マータが死んだ。私は本を暖炉に放り込んだ。だが本は燃えなかった……それどころか、声は相変わらず、聞こえている」
『邪魔する者を排除しろと願ったではないか? 本人が一番厭がっていたなら、本人が一番の邪魔者ではないのか……』
マトリエナの言葉の深奥を知らず、言葉だけを受け止めたロナルフは嘆き悲しみながら、マトリエナの死という事実を受け入れるしかなかった。
「それだけではないですね?」
輝の促しに、ロナルフは小さく頷いて、
「……誘惑は続いた。大公が死なせたのだ。大公が死ねばいいのだ。大公の死を望め、と」
『邪魔する者を排除しろ、と願ったではないか? 今回は、本人が一番嫌がっていた。だから、本人が一番の邪魔者だった』
数日前に聞いたマトリエナの言葉に含まれた真の意味を知らず、言葉だけを受け止めたロナルフは嘆き哀しみながら、マトリエナの死という事実を受け入れるしかなかった。
「それだけ……ではないですね?」
輝の言葉に、ロナルフは小さく頷いて、
「……本は囁くのだ。大公がマータを死なせたと。大公こそ死ねばいい、大公の死を望め、と」
上手い手口や。
輝は思わず感心する。
最初は望みを言わせる。望みは意図とは違うところで『達成』され、次の望みを、悪魔にとって都合のよい望みを引き出す。そして、人は悪魔の誘惑に完全に打ちのめさせるのだ。
感心しきりの輝の隣で、マリオールが首を傾げている。
「どういうことだ? 大公の死? だって、あいつは」
「契約は交わしましたか?」
マリオールの言葉を遮って、輝が言う。ロナルフは首を横に振った。
「いや、だが私のことを『召還者』と呼んでいたな」
「そうですか……もちろんですが、本は悪魔の技だとご存じですね?」
「知っている……ある日、本が突然姿を変えた。小さな女の子の姿に。その子が本と同じような年寄りの声で、自分が生まれた経緯を話した時、この子は悪魔だと気づいた……聞くと、その子もそうだと答えた」
「名は? 居場所は?」
「ハンナと……母親が名付けるつもりだったと言っていた。居場所は……宮殿と我が家には、秘密の抜け穴がある」
「え?」
ルクレースイの驚いた表情を、ロナルフは寂しい微笑みで見つめて、
「何かあったときの緊急避難通路だ。大公とハレシュン家の当主しか知らない。かつてはカントル家にもつながっていたらしいが」
カントル家は絶えて久しい。
「で?」
マリオールが話の先を促した。ロナルフは続ける。
「その途中に、部屋がある。そこにいるはずだ……いつも、そこで会っていた」
輝は大きく頷いた。そして、左手にしているダイヤモンドの指輪に触れ、ダイヤモンドの台座をわずかに引き上げ、くるりと90度回した。そして再び押し込んだ。
それが、最終兵器への最後通達であったことを、輝以外の誰もが知らない。





ピピ。
小さなアラーム音に神田は慌てて、クルマを路肩に寄せ、助手席に置いているモバイルを開いた。
1件の新着メールを開くと、『the final receipt date』の文字が赤く点滅している。そのメールの意味をすぐに理解して、神田はその新着メールをそのまま違うアドレスに転送する。
これで、全ての準備が整った。





空の彼方、大気圏と宇宙の境で、翼を広げ終わった古ぼけた衛星は、再びデータを受け取った。
真空の宇宙では音は伝わらないが、あちこちの照明が点滅し始める。
衛星の内部では、タイム・カウンターが動き始めた。
作動まで、あとわずか。





「よし、じゃあ次はそこだな?」
「そういうことになりましたね」
「とりあえず、これを外すとするか。ナルオン、もういい。解いてくれ」
マリオールの言葉に反応して、ロナルフとルクレースイを捕らえていたナルニトの群生がするすると動き始め、現れた時のようにあっという間に大理石の隙間に姿を消す。
「このお二人さんはどうする?」
「伯爵は、案内をお願いしたいですね……公女は危険ですから」
「分かった。私は行こう。ルクル、君は」
「行くわ」
ルクレースイは強い口調で言う。ロナルフが慌てて、
「ダメだ、ルクル。これから先は危険なんだよ。私には起こしたことへの責任があるけど、君にはない。公大公妃様のところへ」
「別に興味があるから行きたいって言ってるわけじゃないわ。このことはハレシュンだけじゃない、大公家だけじゃない、アルディシンについて重要な意味を持ってるような気がするの。なら、大公家の人間として最後まで見届けないといけないでしょう?」
「ルクル!」
「いいだろう。おまけが一つも、おまけが二つも大した差があるわけじゃない。違うか?」
マリオールの苦笑を含んだ言葉に、輝も苦笑しながら頷いた。
「お姫様をほっといたら、後を付けてきそうだしな。ま、いざとなったら、ザナールに吹き飛ばしてもらうさ。それも派手にな」
マリオールの言葉に応えるように、微かに風が吹いた。





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