凍れる雪の狭間で 16
階段を下りて行くと、そこには人がなんとか一人通れるほどの細い入り組んだ道が続いていた。マリオールは無言のまま、歩を進めるがマリオールの頭上のあたりがほんのりと明るく輝き、辺りを照らしている。
「なんだか、明るいわ」
ルクレースイの言葉に輝も同意する。先頭を進むマリオールが振り返りもせず答えた。
「光のカルスンに、光の精霊を貸してもらったからな。大丈夫だ。それよりもさっきからリフォーが感心している。ここにはリフォーだけじゃなくて、氷のヴァリーイと一緒の場所……つまり、永久凍土らしい。よくも彫り抜いたって」
「……ロールン3世の御代に作られた抜け道と聞いている」
ロナルフの言葉を鼻で笑って、マリオールが言った。
「なるほど。自分は使う間もなしで、息子に殺されたか」
そんなマリオールの背中を見ながら、輝は前から持っていた疑問を口にする。
「……マリオールという名前は誰がつけたんですか?」
「うん? どうしてそんなコト、聞く?」
「前にあなたは言った。アルディシンには、時折石を握って生まれる子供がいて、その中でもごくまれに石に名前を刻まれた赤子がいる……薬師ラスナールはそうだったと」
「よく覚えているな」
「力の程度は分かりませんが、あなたの力はエレーナさんやワイリエ・マリエラを上回っている……だとしたら」
「ワイリエでもこんなに神々と会話しているなんて、聞いたことないわ」
とはルクレースイ。
マリオールの背中には、少し投げやりな様子が見えていた。
輝は続けて言った。
「早くエレーナさんを助けたい気持ちは分かりますが」
「いらんお世話だ。ま、いい。マリオールは古い言葉で、『強き者』という意味だ」
歩を止めず、マリオールは言う。
「オレが生まれた時、左手には……金剛石を握ってて、マリオールと刻まれていた……だからエレーナはオレをそう名付けた」
「金剛石って、ダイヤモンド! じゃあ、あなたは火の神、マトルスの?」
ルクレースイが声を上げた。驚いて振り返る輝にルクレースイが言う。
「子供が石を握ってくるコトは私も知ってる……というよりアルディシンでは誰でも知っていることよ……アムヌ家のオルシアは、確かブルーレースを持っていた。ブルーレースはナルオンの石。でも、石を与えるのは子供神しかいないはずよ? 母である大地のガリアナのエメラルドと水のセシアナの蒼真珠、それから父である火のマトルスのダイヤモンドは未だ誰も持ってない。そうでしょ、ロナルフ?」
「ああ、聞いたことがない」
石を握って生まれることは、希なこと。石に名が刻まれていることは一層希なこと。
「知るか。オレがいくら聞いても、神々は答えないし、肝心のマトルスはいくら問いかけても応えたことすら一度もない……そんなことはどうでもいい。オレはエレーナのことが心配なのだ。置いていくぞ」
苛立ちを隠せないマリオールの言葉で、話は打ち切られた。
ルクレースイが呟く。
「……やっぱり、アルディシンは変革しなくちゃいけないんだわ。神々もそれを望んでいるのね。だから未だかつてないことが、ここにある……」
その言葉の真意を、輝は後に知ることになる。
唐突に、その扉はあった。
列の先頭を歩くマリオールが、リフォーの呼びかけで立ち止まらなければ、知っているロナルフはともかく、輝とルクレースイは気づかないほど巧妙に作られていた。
「上手く出来てるな。まさしく道そのものだ……扉に石を張り付けてあるのか。これはどうすれば開く?」
「それを」
とロナルフが壁のわずかな突起を指差し、近くにいた輝が岩に手を添えた。
「上に押し上げると、開く」
大した力もいらず、岩は簡単に動いた。そしてすぐに扉はするすると奥に向かって開いた。微かに暖かい空気が流れ出す。扉に一番近かったマリオールが迷いもなく、扉の向こうに足を踏み込んだ。
窓があるので、ここが地下ではないことが分かる。明かりはないが、雪の反射光が窓から差し込み、部屋の全貌が見渡せた。
広いとは言えない、部屋だった。
古ぼけたテーブルが一つ、椅子が二つ。それが調度品のすべてだった。
「何か……がらんとしているわね」
ルクレースイの感想はロナルフ以外の全員の感想だった。ロナルフ1人が暗い表情なのを、輝は見逃さない。
マリオールが鼻をくんくんと動かし、
「……ザナールが血の臭いがすると言っているが……臭うか?」
「いえ、分かりませんが」
「オレも分からない……精霊が逃げた? 何かいるのか……」
その時。
パチパチと手を叩く音がして、4人が互いを見つめるが誰も手など叩いていない。続いて声がした。
「すっごーい。やっぱり、神様ってすごいね。ぜーんぶ消したつもりだったのに、分かっちゃうんだ。神様って、万能ってやつ?」
声は4人の背後になる部屋の隅から聞こえた。4人が一斉に振り返る。
そこには少女が立っていた。
6歳くらいか。
黄金の巻き毛。灰白色の瞳。
愛くるしい表情で、4人を見つめて、少女は言った。
「ようこそ、いらっしゃい。秘密の部屋へ」
輝はその少女を見たことがあった。少し前、マリオールに見せてもらったワイリエ・マリエラの記憶。
突然、ワイリエ・マリエラの前に現れ、マリエラを捕らえた者。
ロナルフが呟くように、その名を呼んだ。
「……ハンナ」
ハンナは笑顔のまま、とことこと歩いて古ぼけた椅子に上るように座った。そして4人を見ている。
「ロナルフはもちろん知っているわ。もう半年のつきあいだものね?」
ハンナの言葉にロナルフは顔を背ける。ハンナはそれを見ながら、今度はその傍らのルクレースイを見た。
「こちらは、ハルディナントの姉さんね。うん、お母さんにそっくりね? お父さんには似てないのね」
「……」
「それからこちらは、レタニエね。ごめん、もう少し待ってね。ハルディナントがお母さんを連れてくるから」
「……エレーナをどうするつもりだ?」
マリオールの静かな言葉に、しかしハンナは意外なことを聞かれたように、数回瞬きしてみせて、
「どうする? ……うーん、どうしようかな。レタニエをなくしてしまおうかなって思ってたんだけど、でもそれってワイリエがいたからなんだけど。ワイリエがダメになっちゃったから、今度は逆もOKかな? とか考えてるのよね。ねえ、一度辞めたレタニエは、今のレタニエがいなくなっちゃった時、代わりにレタニエに戻るって出来るよね? 昔、ワイリエがやったのを見たことあるから」
「オレは、殺すつもりか?」
「うん、だって力強そうだし、言うこと聞いてくれそうもないから。リサの力も受けつけなかったんでしょ? おかげでリサはお払い箱になっちゃったもの」
その言葉の真意を、輝はすぐに読みとった。
「殺したんか。あの淫魔を。だから血の臭いがした」
「あ! 神楽坂輝!」
明らかにいたことを知っていたのに、ハンナは今気づいたように輝を指差し、そしてケラケラと笑った。
「やーっぱり。レタニエに助けられたんだ。ハンナはちょっと期待してたのに。ハルディナントが呼んだ悪魔払いがあのベリアル様お気に入りだったって知った時、楽しいなぁとか思ってたのに、ハルディナントの術なんかに引っかかって、大けがするし。面白くない! で、けが良くなったの?」
「……おかげさまで」
冷たく応えて、輝はハンナを睨んだ。
「こわいなー、そんな睨まないで」
「契約も交わさず、こんなことしでかしたら、どないなことになるか。知っとるはずやな? 悪魔のつまはじきになるで」
「いやだ、考え方古―い!」
ケラケラと笑ってみせて、ハンナは続ける。
「ベリアル様が大公になられたのも知らないのぉ? 前の大公方は元天使ばっかりで、秩序が出自がとかうるさくって、ハンナたちはどうがんばっても、結局下っ端のまんまだよ? でも、ベリアル様は実力があれば、どんどん位をくれるんだよ。契約なんて、前の大公方のしてたことでしょ? いいんだもん」
あまりに曲解した考えに、輝は黙った。ハンナも笑みを浮かべたまま、輝を見つめている。口を開いたのはマリオールだった。
「おい、話が読めん」
「あら、知らないの? 悪魔の中でも上位にあったのは、昔神と崇められた者だったり天使だったけど、堕落した者で占めているのよ? あなたたち洗礼受けて、日曜日には教会に行ってるんでしょ、知らないの?」
ハンナのあっけらかんとした言葉は続く。
「少し前、ちょっとした事件があって。魔公爵ベリアル様が、大公ベルゼブブ様を倒された……当然知っているわよねぇ、神楽坂?」
何年か前、自分をゲームの駒として『遊ぶ』のだと、魔大公ベルゼブブが麦子を誘拐したことがあった。
結末は、輝は麦子を救い出し、ベルゼブブは手下としていたベリアルに討たれた。
……悪魔の世界のことや。オレには関係ないこと。
そう割り切っていたのに、あの事件がこんな所で出てくるとは。
「……秩序主義と実力主義は相反するもんやない。ベリアルが自分の地位を守るなら、なおさら秩序を乱す者を許すはずがない」
輝の低く呟くような言葉を、ハンナは一蹴する。
「そうかなぁ? やってみないと、分からないでしょ?」
輝は沈黙する。ハンナは床につかない両足をブラブラさせながら、
「ま、こんなことになるとは思ってなかったけど。そういう意味でいうなら、神楽坂、あなたに感謝しないとね……ハルディナントが帰るまで、もう少し時間があるから、ちょっとした物語りでもしましょうか?」
その途端、4人が入って来た扉が独りでに閉じた。
バタンという音に、輝は目を細めた。
「しましょうか? じゃなくて、聞けゆうことやろ?」
「そうともいうわね」
ハンナの幼く小さな唇に、年不相応な笑みが浮かんだ。