凍れる雪の狭間で 17






「ワイリエ・ラルフィーナとは、確かに契約書を交わしたわよ?」
ハンナが静かに語り始めた。
「このアルディシンは以外に居座り心地がよくて。ラルフィーナと知り合う少し前から、ハンナはトル・ビフィリアの鉱脈で眠ってた。穴場だったわよ。他の侵入者はいないし」
トル・ビフィリアは、土神・金神が生まれた宮。この双子神がいないその鉱脈は十分に力を残しており、だが清浄な力とも悪濁した力とも言い難い、純粋に力の結晶だったのだ。
大した力を持たない下っ端の悪魔が、そこを見つけたのは偶然だった。
力を蓄え始めた悪魔の耳に、悲鳴のような願いが届いたのは、そんな折り。
『王を愛しているのに、王との愛を邪魔する者がいる! 大公妃を殺して! 大公妃の子供も殺して!』
だから、悪魔は契約を交わした。
大公妃を殺してやろう。大公妃の子も殺してやろう。ただし、トル・ビフィリアを我に寄越せ。この契約書にサインすれば、殺してやろう……。
「バカな女。大公との愛って、大公はラルフィーナのこと、なんとも思ってなかったのに。ま、大公妃が死んだってことで、大公はラルフィーナを愛するようになったから、結果は良かったわけだけど?」
レタニエ・アトエラは、ラルフィーナの道ならぬ恋を見抜いていた。だから、ワイリエ・ラルフィーナを咎めたのだ。もしかしたら、ワイリエを王宮から追い出そうと画策したかもしれない。だから、ラルフィーナは大公の耳元に囁いた。
「大公妃が死んだのは、レタニエ・アトエラが毒を盛って弑したとの噂があるようです」
その囁きが、レタニエ・アトエラの失脚を招いた。
ラルフィーナは、大公との幸せな時を過ごした……わけではない。
数年の内に、アルディシンはその姿を大きく変える。
トル・ビフィリアをラルフィーナが大公に教えたことから、大公はトル・ビフィリアを採掘、輸出する。トル・ビフィリアがもたらす利益でアルディシンは大いに潤い、アルディシンの生活は一変する。
やがて、不穏な動きが大公家に生まれる。幼い公太子を立てて、亡き大公妃の一族がワイリエ・ラルフィーナを告発し、大公の裁可を待たずワイリエ・ラルフィーナを幽閉。その数日後、大公の退位を強行し、幼い公太子を大公位に立てた。これがロールン3世である。
かねてから病気がちだった大公ロールン2世は退位後、たった1週間で死んだ。幽閉されていたラルフィーナは大公の死を知って自殺した。自らの指に輝くトル・ビフィリアに最後の願いをかけて。
「ロールン3世を殺せ。それがラルフィーナの願いだったわけ。でも、ロールン3世の死は最初からラルフィーナとの契約とも入っていたし」
それに。
ロールン3世が成人、結婚し、跡継ぎである公太子が生まれ……。
やがて、ロールン3世と権力を争うようになった公太子が望んだことは、
「やっぱりロールン3世の死だったのよ。だから殺してあげた。ハンナは契約を守ったのよ? うん、間違ってない」
トル・ビフィリアの美しい輝きは、アルディシンに冨と、醜い争いを招いた。
大公家内の争いに、ハレシュン、ミオ、カントルなどいくつかの名家が入り乱れながら、身内の争いを続ける様を悪魔は代々のワイリエが身につけるトル・ビフィリアの中で見続けた。時には、争いの種を振りまきながら。
時代は、流れて。
やがてトル・ビフィリアの鉱脈は枯渇する。アルディシンを豊かにしてきた富はぱったりと姿を消し、その結果、権力闘争もなりをひそめ、悪魔が蒔いた争いの種はほとんど芽吹くことがなくなった。
「つまんないのよ。和気藹々っていうの? 全然面白くない! だからしばらく眠ってたの。そうしたら」
とハンナはにっこりと微笑んで、
「ある時、気づいたの。力が大きくなりすぎて、ハンナだけじゃ支えられないことに。だから、二つに分けたのよ。ハンナは二人になったの」
輝の中でようやく答えが見つかった。
ワイリエ・マリエラが得た預言。
『トル・ビフィリアに育まれし者にして、2つに分かれた者の一つ』
リサの言葉。
『私の主人たち』
マリオールも気づいたように目を細め、そして言った。
「お前たちは2つで一つの存在ということか。大公と、ハンナ……」
「うん」
思わぬ難問がようやく解けた小学生。そんな満面の笑みを浮かべて、ハンナは続ける。
「ちょうど、久しぶりに願う声が聞こえて。えーっと、お姉さんの旦那だけど好きで好きで仕方ない。どうすればいいの? だったかな?」
ハンナの声色が不意に変わった。少女の声ではなく、大人の女性の声。
「あんなすてきな男性は他にいないわ。お義兄様のことを忘れてどこかにお嫁に行けるなら……お姉さんはなんて幸せなんでしょう。だったと思うけど?」
「……ヒルダ叔母様……?」
ルクレースイが声の主を言い当てて、呆然とする。
「ま、ラルフィーナみたいな思いこみぽかったけど、いいチャンスだったから使わせてもらったの。リサを束って、えーっとその時の大公を誘惑して。それから、ハンナの力の半分をヒルディーシエの体内に埋め込んだの。8ヶ月後には、ちゃーんと生まれてきた。うん、最初は女の子にしようかなって思ってたけど、大公が言ったでしょ? 女の子だったら余所へ出すって。でもそれじゃ、面白くないから、男の子にしたのよ。その上、あなたが生まれたから、ルクレースイ」
とルクレースイに微笑みながら、ハンナが言い切る。
「なおのこと、やりやすかった。だってハルディナントに勝手に大公位が転がり込むから。ハルディナントが生まれた頃の混乱は楽しかったわよ?」
ルクレースイは怒りを通り越し、呆然としたままだ。
「じゃあ……弟は……ホントに悪魔」
「弟? ああ、そういう意味で言うなら違うわよ」
「……え?」
「いくらお姫様でも分かるんじゃない? たった1回の『あやまち』で子供ができるほど、簡単じゃないわよ」
「……なんですって?」
ハンナは鼻で笑って、
「答えは本人から聞けばいいんじゃない?」
「え?」
次の瞬間、凍えるほどの冷気が風と共に吹き込む。
それは風と言うより、嵐だった。雪を含んだ嵐は部屋の中で冷気と雪を注ぎ込む。
顔も上げられず、必死に絶えるルクレースイをロナルフが抱きかかえる。
マリオールも突然のことに、呪文を唱える暇もなかった。倒れそうな輝を支えるのに必死だ。だが、辺りを観察することはやめていない。そして輝の耳元で言った。
「上だ!」
輝が風に逆らい、必死に天井を見上げた。
そこは天井だったはずだ。部屋に入ってきた時、輝は天井も見た。天井は確かに天井だった。なのに、今はぽっかりと大きな穴が開き、アルディシンのどんよりと淀んだ空が見え……その中心に、人影が見えた。
最初は足だった。4本の足が見え、穴から入り、その人影はやがて見慣れたものになった。2人の足が床についた瞬間、吹き荒れた嵐は一瞬にして姿を消した。天井に開いた穴が閉じ、吹き込んでいた外気が遮断されたからだ。
「おかえり」
笑顔のハンナに続いて、4人はそれぞれ降りてきた2人の名を呼んだ。
「エレーナ!」
「……ハルディナント」
「うん、役者が揃ったカンジ? じゃ、ゲームを始めましょ?」
ハンナが極上の笑顔で言った。





「上手くいった? ハルディナント」
「イヤ……さすがはかつてのレタニエというべきか。ワイリエほど簡単に落ちない」
誰もが新たな登場人物に問いかけの視線を向いているのに、大公ロールン7世は意に介する様子も見せず、隣に立つエレーナを見た。
「意識はある程度奪えたが、最後の最後で手放さない」
「ふぅーん、そっか。あ、ハルディナント、そこにいるのがね」
「分かっている。ロナルフとルクレースイはもちろん知っている。神楽坂輝も。だとしたら、この男がレタニエだろう? マリオール・ジェナイソン。オレと同じで、洗礼を受けてない」
淡々と、ハルディナントはマリオールを見据えながら言った。マリオールは目を細めて、
「エレーナから聞き出したのか?」
「ある程度は支配出来ていると言ったろう? 人間を支配する時、最初に聞き出せるのはその人間が負い目に感じていることだ。冒険家だったか? 行き刷りの恋で生まれた息子は、自分が男と結婚していなかったから洗礼を受けられなかった。男は帰ってくると言って、結局次の春、死体で帰ってきた……だったな?」
ハルディナントの問いかけに、どこか遠くを見つめたままのエレーナは緩慢な仕草で頷いた。そしてたどたどしく言う。 「私は……後悔して……ないけれど……マリオールには……悪い……ことしたわ……ごめんね……ルドナンと……ちゃんと結婚……しておけば」
「やめろ!」
マリオールの怒号にも屈せず、エレーナは続けた。
「ルドナンは……帰った時に、ちゃんと……結婚式を……子供を抱いて……式をしようって……でも、春にルドナンは……」
「やめてくれ!」
悲鳴にも似た懇願に、ようやくエレーナは口を噤んだ。ハンナはにっこりと微笑んで、
「親の愛情って、すごいよねぇ?」
ハルディナントは椅子に座ったまま、足をブラブラさせているハンナを見て、
「私の話をしていたのか?」
「そう、忘れてたわ。お姉さんがね、ハルディナントが本当の弟なのかって」
「ハルディナント」
庇うロナルフを押しのけ、ルクレースイが声を上げる。
「どういうことなの?」
「……私はハンナの力を分けられ、ヒルディーシエの身体を使って生まれた。だからあなたの弟ではない、ルクレースイ」
「なんですって?」
「人の肉をまとう悪魔というのがいる……女性の胎内に宿り、その女性の子として生まれる……もちろん女性は生命を吸い取られ、悪魔を産み落とした跡に亡くなる。そういうことか」
輝の言葉に、ハルディナントは頷く。ルクレースイは呆然としつつも、必死に言葉を紡いだ。
「じゃあ、ハルディナント……あなたは」
「弟ではない。残念ながら」
「ヒルディーシエはよく保ったわ」
ハンナが軽々と椅子から飛び降り、ハルディナントの前までとことこと歩き、ハルディナントに両手を差し出した。ハルディナントは無表情のまま、ハンナを抱え上げる。ハンナはハルディナントに抱えられたまま、
「身体が弱かったから、ずいぶん苦労したわ。おなかにいる間、ヒルディーシエを保たせるためにハンナがヒルディーシエに少しずつ力を送ってたのよ? それが良かったのか、ハルディナントが生まれて何ヶ月かは生き延びられたけど」





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