凍れる雪の狭間で 18
「……ルクレースイ」
静かな声でハルディナントがルクレースイに呼びかけた。ルクレースイは無言のまま、ハルディナントを睨みつける。ハルディナントはそれを意に介した様子も見せず、続けた。
「ルクレースイ。聞いての通りだ。だからあなたの提案を受け入れるわけにはいかない」
「……ハルディナント」
「ああ、あの話? ダメよ、お姉さん。このゲームはハルディナントが大公じゃないと面白くないじゃない」
「ゲーム?」
「そうよ……えーっと、なんて言ったっけ、ハルディナント?」
ハンナが顔を上げると、無表情な声が降りてくる。
「チェスだ」
「そう、チェスね。これはチェスと同じよ。駒を置いて、動かす。でも感情もない駒じゃ面白くないもの。やっぱり、人間でやらなくちゃ」
「……」
ハンナが言い切る『ゲーム』にどれほどの苦しみや哀しみ、そして生命が費やされたのか、輝には想像もつかない。
「アルディシンの歴史は、お前の歴史とでも言いたいんか?」
「あら、上手いこと言うわね」
コロコロと笑ってみせて、ハンナは言う。
「でもね、ゲームは続くの。ロナルフはこのまま使えるけど。ああ、お母さんも使えるわ、エレーナさん」
遠い視線のまま、ハルディナントの横に立ちつくすエレーナを見遣ってハンナはもう一度4人に視線を戻す。
「神楽坂はもちろん、レタニエは二人要らないし、ここまで知っちゃったお姉さんもいらないね。ねえ、ハルディナント」
ハンナの問いかけにハルディナントは応えなかったが、一瞬ハルディナントの無情の壁が揺らいだように見えて、輝は目を細めた。
「くそっ! ザナール、2人を見えぬ……」
「マリオールくん、ダメだって」
マリオールの呪文を、ハンナが止める。そしてハンナはハルディナントのコートに手を入れ、小型ナイフを引っ張り出しエレーナに声をかけた。
「エレーナさん、これ持って」
エレーナは相変わらずぎごちない動きで、エレーナが差し出したナイフを受け取り、自分の首元にあてた。そしてそのまま、動かなくなった。それを確認して、ハンナが言う。
「呪文なんか唱えないでね? お母さんの喉に穴が開くよ?」
「くっ……」
「ロナルフ、あなたは少し離れててね。けがするよ?」
「イヤだ!」
強い口調で拒否を示すロナルフに、ハンナの目がすぅっと細くなる。
「あなただけは助けてあげようと思っているのに?」
「これ以上、人が死ぬのはイヤだ!」
「そうなの……じゃ、お姉さんは助けてあげるって言っても?」
「え?」
ロナルフはハンナを見、ルクレースイを見て聞き返す。
「だって今」
「殺してしまおうと思ったけど、ロナルフ、あなたが操るなら話は違ってくるでしょ? ハルディナントの大公位がいずれ転がり込むためにはお姉さんは活かしておかなくちゃ」
「……そうしていずれは、私の子として生まれてくるつもり?」
ルクレースイの怒りを押し殺した言葉にハンナは、ケラケラと笑う。
「あら、そういう方法もあるわね。ハンナとハルディナントを一つにするためには新しい身体を用意しておけばいいものね」
「そんなこと!」
ルクレースイはロナルフを押しのけて、ハンナとハルディナントの前に仁王立ちする。ルクレースイは仁王立ちのまま、言葉を続けた。
「そんなこと、絶対させない。ハルディナント、言ったでしょ? 私たちの時代で大公家はおしまいにしようって。トル・ビフィリアにしがみついて、甘い汁を吸って生活できる時代はとっくに終わってるって」
「……退位しろ、という話だったな。私を退位させて、典範を変えて、自分が大公になるつもりだろう?」
ハルディナントの表情を加えない言葉に、ルクレースイは怒りを抑えつつ、言葉を紡ぐ。
「大公には、ならない。大公家をおしまいにするってことは、私が大公になるってことじゃない」
その時、輝は自分の視界の住みでマリオールが遠い視線で宙を見つめているのに気づいた。いつもの『神々との会話』だ。
何か、やる気か?
マリオールの様子に気づかないルクレースイの言葉は続く。
「アルディシンの立憲君主制はとっくに限界に来ている。トル・ビフィリアが採掘出来ない今、収入の見込みがない以上、国民のGNPは下がる一方……ならカンフル剤として立憲君主制を廃止して民主制をとるべきでしょう?」
「分かんないかなぁ?」
ハンナが、生あくびを飲み込みながら、
「それって民の幸せってやつでしょう? ハンナたちは遊びたいんだよ? 矛盾してるでしょ? 分かんない?」
「知りたくもない、悪魔の都合なんて!」
怒りを抑えきれず、ルクレースイは叫んだ。
そして次の瞬間、誰もが予想していなかった行動に出たのだ。
不意に、ルクレースイが動いた。喉元にナイフをあてたままのエレーナに飛びかかり、ナイフをもぎ取ろうとしたのだ。
ロナルフの声が響く。
「ルクル!」
「こんな……ことって……許さない! 許さない!」
おそらくは魔術も武術も習得していない女性の動きなど、予想もしていなかったのだろう、ハンナが大きく目を開き、ハルディナントの腕から飛び降りながら、叫んだ。
「ハルディナント!」
ハルディナントの動きは素早かった。梃子のように動かないエレーナと、エレーナからナイフを奪おうとするルクレースイに近づき、ルクレースイを背後から抱えようとした瞬間。
ナイフがぽろりと、エレーナの手から離れ。
薄暗い部屋にマリオールの低い声が響いた。
「マトルス、汝の子マリオールが唱う。浄化の焔を!」
次の瞬間、輝は自らの指輪にさわり、台座からダイヤモンドを外した。
時を同じくして、ハンナとハルディナント、エレーナとルクレースイが赤い炎に包まれた。ルクレースイが思わず悲鳴を上げる。ロナルフが駆け寄ろうとするのを、マリオールが力ずくで止めた。
「ルクル、ルクル! 何をする!」
「大丈夫。二人は無事だ」
「あんなに燃えているんだぞ!」
興奮するロナルフを宥めるようにマリオールが静かに言う。
「あれは、マトルスの浄化の炎だ。エレーナとお姫様には影響はない」
「しかし!」
赤い炎は、囂々とすさまじい音を立てながら4人を包み、すぐに4人の姿は炎に隠れて見えなくなる。
「ルクル!」
悲鳴はすぐに聞こえなくなった。ただ炎の立てる激しい音だけが響いている。
「大丈夫だ、2人に影響はないさ、何せ始まりの神、マトルスの焔だ」
「さっき自分で言ったではないか! マトルスとは会話できないって」
「マトルスから話しかけてきたんだ。自分を呼べって」
その時。
現れた時のように、突然炎が姿を消した。そこにはしゃがみ込んだルクレースイを庇うようにエレーナがその上に覆い被さっている。二人には何の変化も見られない。マリオールが駆け寄る。
「エレーナ」
「……大丈夫よ。こちらも大丈夫。今のは……マトルスの焔ね」
「ああ」
静かな声は確かに自分を看病してくれた優しいエレーナ、そのもので。
輝は思わず安堵の溜息を吐いた。
マリオールは、軽々と二人の女性を抱えて、近くの椅子に座らせる。見たところ、二人とも憔悴しているようだが、どこにも火傷や焦げたような様子は見えない。ロナルフがルクレースイに駆け寄って、
「ルクル」
「……大丈夫。ちょっとびっくりしたけど」
「けがは?」
「ないわ」
エレーナは深呼吸を一つして、自分の前に跪く息子に哀しそうに微笑みかける。
「……ごめんなさい」
「親が子供に謝るな。だから、忘れてくれ。オレは何も聞いてない」
きっぱりと言い切った息子を見つめて、エレーナは小さく頷いた。マリオールは立ち上がり、動かない輝に声をかける。
「まだ、だな」
「そうですね。まだ、です」
さっきまでハンナとハルディナントがいた場所には、何か黒く焦げた大きなものがうずくまっているようだった。それは小さな煙が幾筋か立ち上げている。動かないそれを、ルクレースイは視界の隅に見て、同じように見つめていたロナルフの袖を引いた。
「ロナルフ、あれ……」
「なんだ? ……まさか」
焦げたそれは、一瞬ぴくりと揺れ、やがて黒く焦げた中から、二つの顔が現れた。
憔悴しきったハルディナントの顔と、怒りに満ちたハンナの顔。
おそらくだが、マトルスの炎をハルディナントは自分の身を挺してハンナを守ったのだろう。
あちらこちらが焦げ、なんとか立ち上がったがふらりと蹌踉めく。ハンナは背後のハルディナントの様子などまったく気にならないように、立ち上がった。ハルディナントの懸命な庇い方のおかげで、少女は全くの無傷だった。
「一体なに!? 人間の、ハンナの駒の分際で、何をするつもりだったの? まったく! もう、面白くなったら! ぜーんぶ、リセットしちゃう。一から、駒を育てるわ! もっと、もっと従順な駒を!」
ふらりと立ち上がったハルディナントがハンナの背後に立ち、左手を前に出した。それに続いてハンナが右手を出そうとした瞬間。
静かに見ていた輝が、やはり静かに詠唱し始めた。
「……我が前に来たれり、地のセラフィム。地の力にて、縛せよ」
低く響いたその声に、ハンナは右手を出そうとした姿勢のまま、動けなくなる。怒りに満ちた表情が、驚愕に変わるまで時間はかからなかった。
「な!」
「地のセラフィムの呪文や。いくらトル・ビフィリアで力をつけたお前たちでも、解くのはちょっと難しいやろうな」
輝は無表情のまま、身動きがとれない二人を見つめていた。
「神楽坂!」
ハンナの叫びを、輝は無表情の鉄面皮でやり通す。
宇宙に漂う古ぼけた衛星の中で、動き続けたタイム・カウンターが一秒ごとに少なくなり……そして、『0』になった。
かちり。
広げた両方のパネルの先から、光が放たれる。そして、中央からも。三方から地球に向かって放たれた光は、すぐに一つとなり、地球を目指す。
大気圏を抜け、地上を目指す。
そして雲を突き抜け、北半球の、アルディシンへ。