凍れる雪の狭間で 19
最初に気づいたのは、マリオールだった。
不意に天井を見上げ、輝を見た。
輝はマリオールと視線を合わせ、小さく頷く。マリオールはそれだけで全てを察した。
風神ザナールが怯えるような声を上げている。それはマリオールにしか聞こえていないが、何かが起きることは間違いなかった。それも輝が起こそうとしているもの。
悪魔を束縛した。
空気を振動させて、空の彼方から来るもの。
今朝、輝がかけていた電話。
日本語が分からないマリオールでも、『サテライト』の単語は分かった。
Satellite、衛星。
「エレーナ、お姫様もこっちに」
マリオールはロナルフも加えた3人を椅子から立たせ、部屋の隅に移動させる。エレーナが立ち上がり、目を細めた。
「……マリオール……地面が揺れている?」
「違う。空気が揺れているんだ」
この頃になって、身体が動かすことに躍起になっていたハンナはハルディナントの声に我に戻った。
「ハンナ、何か来る!」
「え?」
確かに、頭上から圧迫感が襲ってくるような、そんな恐怖感に包まれる。
「なに?」
雲は自ら、急降下してくる光の塊を避けた。
光は地上に向かう。
そこは、雪の中。
光は、雪の中に突進する。
部屋の中に広がったのは、全ての色を無くすほどの、純白。
耳をつんざく音。そして、ハンナらしき悲鳴が上がる。
輝は、目を灼くほどの光量の中で、ただ黙って二人の悪魔を見つめていた。
ともすれば見えなくなりそうな、光の中でもがくハンナとハルディナント。ハルディナントがもがくハンナの上に覆い被さり、庇おうとする。
そして、二人は光に包まれた。
部屋は、純白に染められた。
音が消え、輝は瞬きして、ゆっくりと目を開いた。瞼の奥ではまだ純白の光が灼きついているような、感覚が残っている。
既に光は姿を消し、輝の前には、マトルスの炎が消えた時と同じ光景が広がっていた。
小さく煙りがあがっている、大きな黒い塊。
だが、それはすぐに形を無くしていく。
サラサラと小さな音を立てて、灰に姿を変えていく。
「……やったのか?」
「まだ、わかりません」
そろそろと目を開いたマリオールに、輝が応えた次の瞬間。
さらさらと解けていく灰の中から、立ち上がったのは。
「……ユルサヌ、カグラザカ! よくも、ハルディナントを!」
ハンナ、のはずだった。
顔は煤けているが、ハンナに間違いない。身につけていた衣装は、ボロボロで、黒くなっていた。
声は、少女のものではなく、嗄れた年寄りのそれだった。
「オノレ、シヌ!」
怒りに満ちた声とは裏腹に、差し上げようとした左手はゆるやかな動きで、輝が呪文を唱える余裕を十分に与えてしまった。
「火のセラフィム、水のケラビム、壁にて滅せよ!」
気持ちとは違い、思うように動かぬ右手に悪態をつきながら、ハンナが右手を上げた時には、輝の周りには既に魔術の結界が出来上がっていた。ハンナは視界の隅に、動く者を見た。
今は消えてしまったハンナの半身の、姉。
「ひとりぐらいは、かたづけてやる!」
ハンナの行動は、輝の予想を超えたものだった。少女の右手が自分ではなく、部屋の隅に立ちつくす公女に向けられたことに、幾分とまどいを感じながら、慌てて続く呪文を唱えた。
「火の被造物にして、地の塊よ、破滅を命」
だが、呪文は間に合わなかった。
ハンナの右手に強い光が急速に集約し、突如光の矢となって、ルクレースイに向かったのだ。
マリオールですら、その情況を把握しきれなかった。声を上げるので、必死だった。
「お姫さん! 危ない!」
放れた光の矢は、驚愕の表情を浮かべるルクレースイの直前で。
肉に食い込むイヤな音を立てて、止まった。
「仕損じたか。まあ、よい。一人は仕留めた !」
満身創痍のハンナは、煤けた顔に不気味な笑みを浮かべて、そして姿を消した。
「くそ!」
マリオールが動こうとしたが、輝が止める。
「無理です」
「だが」
「さして力も残っていないはず。どこかで朽ち果てるでしょう……それより」
輝は振り返り、マリオールも輝の視線の先を追う。
そこには。
「……ルクル……無事、だね?」
「ロナルフ!」
安心した表情を浮かべた途端、崩れ落ちたロナルフを、ルクレースイは必死の想いで抱え上げた。
「ああ、よかった……本当の意味で、ルクルを守れたよ……」
ハンナが放った光の矢は、ルクレースイを捕らえる直前、ルクレースイの前に飛び出て来たロナルフの胸に突き刺さって止まったのだ。
「ロナルフ、どうして!」
「……マータを守れず、今度はルクルも守れなかったら、僕は……生きる意味がないからね」
「……ロナルフ」
エレーナが素早くロナルフの手首を握り、脈を取る。ルクレースイが縋るような目でエレーナを見つめるが、エレーナはやがて小さく首を振った。
ロナルフの死期が近いのは、明確だった。
胸に深々と突き刺さった光の矢は、今では姿を消してしまった。だが、その傷口から鮮やかな色の血が、脈打つように溢れてくる。ルクレースイは止血をしようと、懸命に傷口を押さえるが、その指の間から、暖かな血が流れ出ていく。その一方で、ロナルフの顔色はみるみる青ざめていく。ルクレースイは輝とマリオール、エレーナに向かって叫んだ。
「なんとかして!」
「……やめてくれ……もう死ぬことは分かっている……もう目は見えないんだ……」
「いやよ……ロナルフ」
「君は君で、生きろ……何者にも縛られない、鳥のように自由に生きろ……ルクル」
「……ロナルフ」
「これでいい、これでいいんだ……少しは償えたかな……どうか、な……マータ」
深い吐息の中で呟くように、ロナルフは言って。
ゆっくりと目を閉じて。
一つ深く息を吐き出して。
そして、動かなくなった。
「ロナルフ?」
エレーナが慌てて、再び脈を計ろうとするが、すぐに囁くように言った。
「……もう」
「……ロナルフ」
ルクレースイの瞳から、わき上がるように涙が溢れ、青白いロナルフの額に降り注ぐ。
「ロナルフのバカ。なんのために、結婚しようって言ったのよ。ハルディナントを退位させて、ロナルフが即位するようにみせかけて、民主制を宣言しようって、約束したのに。ハルディナントが死んで、あなたまで死んじゃったら、意味がないでしょ……」
「やはり、そういうことですか。大公位を争う骨肉の戦い、かと最初は思いましたよ。でも、違うんですね」
輝の問いかけに、ルクレースイは小さく頷いた。
「トル・ビフィリアが出ない以上、このアルディシンでは君主制を維持していくのが限界になってる……だから、ハルディナントに民主制への移行を勧めたけど、聞き入れてくれなかったから、ロナルフと話をしたのよ。私と結婚することで、大公位継承権を得て、ハルディナントを退位させる……でも、ロナルフは即位しないで、民主制宣言をするって」
「……」
「……でも、死んじゃったら、意味ないでしょ……」
ぽろぽろと、色を失った両頬に、暖かな涙の雫が落ちていく。
どれほどの時間が経っただろうか。
ルクレースイは、抱きしめていたロナルフの遺体を床に下ろした。そして、ゆっくりと立ち上がり、輝に声をかけた。
「ハルディナントは?」
「……あれです」
輝が指さした先には、灰の塊だ。そこからハンナは立ち上がり、ルクレースイに光の矢を放った。
「どういうこと?」
「おそらくは、ハンナを庇ったんでしょう」
「あの灰、そのままにしておいても、害はないの?」
「ないでしょうが……一応、聖水で清めておいた方がいいでしょう……どうします?」
「これに入れるわ」
ルクレースイの差し出したハンカチに、輝は灰に近づき、丁寧にハンカチの中に灰を残らずかき集める。
「レタニエ、悪いけど、ロナルフを宮殿まで運んでくれない?」
「ああ。だが、何を……」
「ロナルフが出来なくなったなら、私がするしかないでしょ?」
オノレ、おのれ!
神楽坂、マリオール、どいつもこいつも、許さない!
ハルディナントを殺して、ハンナに手をかけるなんて!
怒りに押し流されながら、ハンナは空を駆ける。空の色は青から赤黒くなり、かつての自分の住まいに帰ってきたことを実感させる。
ここは、魔界。
悪魔の住む、世界。
ハンナの背中には黒い皮膜の羽根が現れ空を叩き、空を飛んではいるが、皮膜はところどころで穴が空き、同じ高さを飛び続けることは不可能で、高度は下がり、その度に羽根は激しく空を叩き、高度を一時的に上げる。
「 どうしてくれよう?」
空を飛び続けながら、ハンナは怒り狂いながら、それでも考える。
そして、結論は。
「悔しいけど、悔しいけど、やっぱり少し力を蓄えないと」
自分で持て余すほどの魔力は、半分に分かれ、その半分を持っていたハルディナントは消されてしまった。
今のハンナは、かつて魔界の隅で怯えながら生活していた頃の、大した差はない。だが、ハンナ自身はそれほど力がなくなったことに気づいていなかった。
「……トル・ビフィリアみたいなものを、もう一度探すことにしようかな?」
バサ。
大きな羽音が聞こえて。ハンナは上空を見上げた。そしてそこに広がった光景に、思わず言葉を失った。
悲鳴だけが、口から微かに漏れる。
「あ、あ」
そこにいたのは、数百の悪魔。
憎しみに満ちた顔が、ハンナを見つめている。ハンナは言い知れぬ恐怖で身体を硬くした。
声を上げたのは、数百の悪魔の一人だった。怒りを抑えた声で、ハンナに告げる。
「お前は罰せられる。そして、八つ裂きにされる」
「な……なぜ?」
「わからぬか。契約をしなかったのが、第一。契約をしなかったのが、第二。貴重な宝石を一人占めにしたのが、第三だ」
「そんな……」
なんとか助命を懇願しようとして、ハンナはここ何年も、呪文のように唱え続けてきた名前を口にする。
「ベリアルさま、そう、ベリアルさまに会わせて! ベリアルさまなら、きっとハンナのことを分かってもらえる!」