凍れる雪の狭間で 20
ベリアル。
その名前は、ハンナにとって僅かに残された、蜘蛛の糸。
僅かな、儚い希望を『ベリアルさまに会い、認めてもらう』という幻想に、ハンナはずっと縋り付いていたのだ。
だが、蜘蛛の糸は最初からなかったことに、ハンナは一瞬にして気づかされる。
「御裁可は、魔大公ベリアルさま直々によるもの。下賤の者が、見苦しいぞ。ベリアルさまは、契約を怠った者には、八つ裂きと決めておられる」
「……そんな」
幻想だった蜘蛛の糸。
救いの手はもう差し伸べられず。
赤黒い魔界の空に、ハンナの小さな悲鳴が響いた。
それだけだった。
「なんですって?」
「それが、2時間以上前にご到着の様子ですが、どちらにもいらっしゃらないんです」
「……どういうこと?」
先の大公妃・マルローネイは首を傾げた。
先ほど大公付き執事のオートラルが現れ、大公が来ていないかと尋ねて行った。来るはずがない所まで探す執事の姿に、マルローネイは何か言い知れぬ不安を感じたのだ。
不安は、違う場所からももたらされた。
橇馬車を止めておく車寄せに、違う用事で顔を出したマルローネイの侍女エリヤが、ハレシュン伯爵家の橇馬車を見つけたのだ。
顔見知りの御者と親しく話をしている内に、信じられないことを聞いた。
『え?』
『いや、もう2時間以上前の話だよ? お母様の所に行くって二人で行きなさったのは。オレは宮殿の中なんて行ったことねえから分からないけど、そんなに広いのかい?』
そんなことはあり得ない。
まして、生まれ育ったルクレースイが、宮殿の中で迷うなど。
「どこへ行ったんでしょうね……ハルディナントのこともあるし……」
エリヤと二人で首を傾げていた時、騒がしくマルローネイの部屋に駆け込んでくる足音があった。エリヤが咎める。
「何事です! ここが公大公妃殿下の部屋としっての所業か!」
「し、失礼いたしました……武官のモートンと申します……どうぞ、謁見の間にお越し下さい、公女殿下が……伯爵と」
「え?」
よほど慌てて走ってきたのだろう、息が切れて言葉が出ない武官をちらりと見て、マルローネイは立ち上がった。エリヤが慌てて聞く。
「公大公妃殿下?」
「謁見の間に。急ぎます!」
マルローネイはここ数十年で一番という、早足で謁見の間に駆け込んだ。
さして広くない謁見の間には、大公位にある者のみしか、座ることは出来ない玉座が置かれている。玉座はその他の者から一線を画する為に、階段3段分高くされた場所に置かれ、玉座の上には天蓋がかけられている。今は大公の玉座しかないが、数年前まで、その隣に大公妃の玉座が据えられ、マルローネイはそこに座って謁見を受けていたのだ。
だが、そのような回想どころではなかった。
謁見の間には既に何人もの高官が集まって、呆然と謁見の間に広がった『景色』を眺めていた。高官の他にも、見慣れない顔が2、3つあったが、中央から離れた生活を送っているマルローネイは気にならなかった。
玉座の手前にある階段に立つ我が娘を見つけて、マルローネイは悲鳴にも似た声を上げる。
「ルクル! なんということ!」
娘は、顔の左側から胸に、そして左手がこびりついた血で汚れていた。
「母様、これはロナルフの血です。私は、大丈夫……ロナルフが庇ってくれたの」
「ロナルフ……」
ルクレースイが視線を床に落としたので、マルローネイも視線で追う。
ルクレースイの足下に横たわる男性。
両手を胸の上で組み、眠っているようだが、両手や顔の色は既に死者の色をしている。
「……どうして? どうして、こんなことに……」
「ハルディナントです、母様。ハルディナントが私を殺そうとして……」
「そんな!」
声を上げたのは、オートラル執事だった。腰が抜けたように座り込んでいたが、手で這って、ルクレースイの前に行き、声を張り上げた。
「大公が、どうして!」
「……」
「大公はどちらにおいでなのですか」
ルクレースイがちらりと傍らに立つ輝を見遣った。輝はオートラル執事の前に抱えていたハンカチの包みを置き、ゆっくりと開く。包みが開いて、オートラルは中をのぞき込む。そして、灰を確認して、声にならない悲鳴を飲み込んで、そのまま失神した。どうやら息子らしい、顔立ちが良く似た壮年の男性が抱え起こす。ルクレースイは低く、しかし通る声で言った。
「大公ロールン7世は、急な病にて亡くなられました。付き添っていたハレシュン伯爵ロナルフも同じく亡くなられた。いいですね。両名とも、病死です」
「病死ですと!」
「まこと」
「……病死とするのです」
凛としたルクレースイの声に、ようやく意識を取り戻したオートラルが言う。
「病死とすると? 大公はいない、大公位継承権を持つ者は誰もいない。今や、近しい者は、ルクレースイ公女、あなたと妹君方だけだ」
「……そうね、オートラル」
「あなたはこうなることを、分かっていて!」
「父さん!」
激昂する老人を、息子は必死で押さえようとする。謁見の間の誰もが、ルクルの怒りを感じたかのように沈黙した。
「父さん、失礼なことを!」
「だが、事実じゃ! 致し方ないことじゃが、お二人の仲違いは。周知のことで!」
オートラル父子の言い争いに終止符を打ったのは、静かなルクレースイの声だった。
「トール・オートラル」
凛とした声に、オートラルの背筋が伸びた。
「……はい」
「公室典範に、女子の大公位継承権の不要性について書かれているのは?」
「……8条です」
「そう、8条1項ね。でも8条特記3項は?」
老人は記憶をたぐり寄せ、声を上げた。
「……ただし、大公、大公位継承権所有者が不在の場合、執務代行を行うのは3親等以内の女子でも認めることとする」
「え?」
マルローネイは初めて聞く、自国の法律に耳を疑った。
娘3人を生んだ大公妃の耳に、口さがない噂話は聞こえてくることもある。
公室典範で、女子には大公位継承権が与えられない。だから、女子より男子を生まなくてはいけない。
それは何度、聞かされた話だったろう。
「母様。この特記3項は、父様が付け加えたのよ」
「……え?」
「そうよね、オートラル」
「はい、そうです」
「では、私がロールン7世の執務代行を行うことは許されているわけでしょう? オートラル、宣言書を用意して欲しいの」
「なんの……宣言書ですか?」
「アルディシン大公家の廃止と、アルディシン民主共和国の設立、よ」
今度のオートラルの失神は、ちょっとやそっとでは恢復しない、失神になった。
「……民主共和国?」
思わず聞き返した誰かの言葉に、ルクレースイは力強く頷いた。
「王意が全ての時代は、もう過去のものです。このアルディシンでも過去の遺物とするべきでしょう。民意で全てをすすめるのです。議会の設置と……議会に代表者を集めなくては。代表者は選挙できめなくてはいけません。ギール・オートラル」
失神してしまった老いた父親を、なんとか別室に下がらせた息子が、顔を上げた。
「はい」
「首席執事がいないので、次席執事のあなたに宣言書の創案をお願いします」
「……おそれながら、公女殿下。公女殿下が、国民のためにお考えなのはよく分かりました……失礼ですが、こちらの方々は?」
ルクレースイ公女が姿を見せた時、現れた3名の男女にギール・オートラルは父親以上に厳しい視線を向けた。それは今も変わらない。
「こちらは」
「申し上げます!」
ルクレースイの言葉を遮って、謁見の間に飛び込んできた武官は、部屋の空気に気圧されて、思わず言葉を飲み込んだ。
「えっと」
「何ですか?」
ルクレースイの促しに、武官は恐る恐る声を上げる。
「あの、ワイリエ・マリエラがいらして、公女殿下にお目通りを……」
輝が思わず、マリオールを見上げる。
「呼んだんですか?」
「オレじゃない。ザナールが勝手にやったんだ」
二人の会話とは別に、謁見の間では疑問符が広がっている。
「どういうことですか? 数年前の『事件』から、外出することもなく、大公殿下が出向かれるワイリエ・マリエラがなぜ」
「ワイリエ・マリエラをこちらにお通しなさい」
「はい……」
武官は慌てて踵を返した。
ルクレースイは、マリオールとエレーナをチラリと見て、
「こちらの二人は、アルディシンの者です。それからこちらは……ロールン7世の客人ですよ」
「え?」
ルクレースイの言葉に、輝は一歩前に出て、軽く頭を下げつつ、
「神楽坂輝です」
「……もしかして、大公殿下が招かれた悪魔祓師?」
「はい」
「どういうこと、ですか? 殿下。我々には何も分かりません」
「そうであろうの。これは、神々の世界の話じゃ。悪しき者がおり、清き者がおる。そういうことじゃて」
謁見の間の入り口から、部屋にいなかった声がして、全員が入り口に振り返った。ワイリエ・マリエラが、少し曲がった背筋でゆっくりと部屋に入ってきて、玉座の前に立つルクレースイに一礼する。
「初めての方々が多いの。我が名は、ワイリエ・マリエラ。よろしいかな」
わずかな人数から、ささやかなざわめきが上がった。
無理もない、ここにいる高官たちの中で、ワイリエ・マリエラを実際に見たことがあるのは、数少ない。ルクレースイですら、物心ついた頃にはワイリエ・マリエラと会えるのは、父、そしてそののちは義弟だったから。
「あなたが、ワイリエ・マリエラ?」
「いかにも。公女よ。この度の大公と、伯爵の死は悪しき者たちとの戦いの結果であろう? 神々がそう語る……だが、公女はそれを明かさず、病死とするか……国民の心を静めるために?」
ワイリエの静かな口調に、ルクレースイは不意に気づいた。
実は、ハルディナントとロナルフの死をどう説明するかは、まったく考えていなかったのだ。
ロナルフが受けた悪魔の誘惑。
それを明かせば、ハレシュン家どころか、ミオ家の内情まで明かしてしまうことになる。
まして、ハルディナントの正体などは、大公家の失態そのものだ。
嘘はつけない。
だが、どう言おうか。
考えあぐねていた時だったのだ。
ワイリエ・マリエラの言葉は、ルクレースイに助け船を出したのだ。