凍れる雪の狭間で 21
「……そうです。公式文書に載せられることではない。だから、大公とハレシュン伯爵の死は、病死と発表します。日にちをずらして」
「……それが国民のためと、殿下は仰せか?」
ギール・オートラルの言葉に、ルクレースイは頷いた。
「……なにより、ハレシュン伯爵がそう望んでいた、とそう考えてください」
「わかりました。そのように」
ギールは、もう深くは聞かなかった。
聞いても、自分の理解を超えた世界なのだろう、と不意に思った。
「申し上げます!」
再び飛び込んできた、武官を今度は武官長がたしなめる。
「今度はなんだ?」
「はい、あの、宮殿玄関前に、ヘリコプターが降りて来まして。その、男が一人降りて……誰何したところ、神田一と。神楽坂輝に会いたいと」
思いもしなかった名前に、輝が目を細める。その様子を見て、マリオールが耳元で囁いた。
「知り合いか?」
「部下です……迎えに来たのか……」
「どうしましょう、すごい剣幕なんですが」
「通しなさい」
おろおろとする武官の言葉を、ルクレースイの静かな言葉が圧倒した。
「公女殿下?」
「迎えに来たのでしょう。神楽坂はここにいます。そう伝えて連れてきなさい。構いません」
「わかりました……」
あたふたと、再び去っていく武官のことなどまったく気にならない様子で、ルクレースイは傍らに立つ、マリオールに問いかけた。
「帰ってもらっても、構わないんでしょう?」
「もちろん。というより、ちゃんとした病院で治療してもらったほうがいい」
言外に、カリュナーズ薬の効力を気にしているのは、マリオールの続いた『大丈夫か?』の言葉に凝縮されていた。隣に立つ、エレーナも心配そうにみつめている。輝はエレーナに安心するように微笑みかけた。
だが、輝は不意に感じた。
身体が、熱い。
目の奥が、熱い。瞬きするたびに、その暑さは温度を上げていくようだ。
その時。
「先生!」
素っ頓狂な声を上げて、謁見の間に飛び込んできたのは、
「神田か。コペンハーゲンからヘリで来たんか」
「はい。あの……衛星は」
「ああ、ちゃんと機能しとったわ。ま、思うたよりも早うに使うてしもうたけど、役に立ったわ」
「そうですか……」
輝を見つけた安堵感から、神田はその場に座り込みそうな様子だった。輝がたしなめる。
「おい、公女さまの前やで」
「公女さま……?」
辺りを見回して、神田は一段高い所に立つ少女を見つけた。そして慌てて礼をする。
「はじめまして、あの、神田と言います」
「ルクレースイです」
「はい!」
「おい、衛星ってもしかして、さっきとてつもない力を落としてきたのは、宇宙にある、衛星か?」
マリオールが呆気にとられて、輝に聞く。
元々は最終兵器として、温存していくためだった。だが、使ってしまった以上、『衛星』の意味を知らせた方がいい。輝は小さく溜息をついて、熱くなる体をだましだまし、声を上げた。
「元は、旧ソ連の軍事衛星です。打ち上げたのは良かったけど、使用前にソ連解体で、まったく用をなさなくなった衛星を買い上げて、普段から力をためておいた。だからあれだけの力になったんですよ。もっとも、一度使うと、衛星のバックアップシステムがないから、もう使えない」
「……ということは、使い捨て?」
「そうなりますね」
贅沢な、おもちゃだなと揶揄するのはマリオールだ。周囲の人間はその状況をほとんど理解していない。
「お姫様、早くしたほうがいい」
マリオールの促しに、ルクレースイは小さく頷いて、輝と神田に言う。
「神楽坂さんは、一度コペンハーゲンで治療をお受けなさい。後のことは、また後に」
断る理由はないので、輝は大きく頷いて、優雅に一礼しようとした時。
何とはなしに、身体が傾いだ。
輝は傾いだ身体の体勢を戻そうとしたが、身体は言うことを聞かない。なんとか、転倒する寸前に、両手はついた。だから顔面や後頭部を打ってはいないと思うのだが……。
「先生!」
「大丈夫だ」
「薬のせいだ。無理をするな。オレが運ぼうか?」
マリオールの力強い手が、輝を立たせる。
「大丈夫ですって」
マリオールより一回り小柄でも、抱え上げられ運ばれるのは、男として少しみっともない。輝は矜持でマリオールの手を払おうとして、失敗した。
振り払おうとして、身体が傾ぐ。
今度は、もうどうしようもなかった。
限界、だった。
瞼が輝の意思とは別に、強制的に閉じた。そして、輝に抵抗する間も与えず。
輝は、意識を手放さざるをえなかった。
自分の手をふりほどこうとして、突然輝の力が抜けた。マリオールは慌てて、輝の手を引き寄せる。マリオールが手を握っていたので、輝の身体は床に激突せずにすんだ。神田が駆け寄る。
「先生!」
マリオールはゆっくりと輝を床に下ろし、手首の脈を握る。心配そうに駆け寄って来て、輝をのぞき込むルクレースイに声をかけた。
「大丈夫とはいえないな。過度の疲労というやつだ。命に別状はないな……さすがというべきか。だが、コペンハーゲンで治療した方がいい……えっと、カンダとか言ったな」
「はい」
「急いでヘリに運ぶ。ヘリの手配を。オレはこいつを抱えていく」
「お願いします!」
神田は、慌てて走り出した。
「一応、冷やさないようにな。トナカイの皮だ。このあたりでは病人をそれで包む」
ヘリに行き先の手配と、病院の受け入れを要請していた神田の元に、ルクレースイ公女と輝を抱えた長身の男がやってきた。トナカイの柔らかい毛皮に包まれた輝は、決して顔色は良くないが、だが、規則的な呼吸を続けている。
「すみません」
「何を謝る。謝られるようなことはしていない……ああ、それから」
突然長身の男は、自らの首元に手を突っ込み、何かを引きずり出す。
男の握られた拳が広げられた時、ルクレースイが声を上げた。
「ちょっと、マリオール!」
「こいつには癒しの力がある。握ってみろ、少し暖かいはずだ。オレの体温じゃないぞ。いつもそうなんだ」
促されて神田が手を出すと、男は掌のものを、神田の手の中に落とす。
それは、白濁した石だった。形は水の雫のようだ。石には何か文字が彫り込まれていて、雫形のもっとも小さくなっている部分にどうやら穴を開け、革ひもを通してある。
「オレの守り石だ。だから、先生にかしてやる。良くなるまで肌身離さずつけさせろ。治癒力を助けるはずだ」
「ありがとうございます」
「だから、かすだけだ。必ずいつか返しに来い。それは、オレの守り石だ。先生にはそう言えば分かる」
「あの、お名前は……」
男は神田の問いかけに、ニヤリと笑って、
「先生は知ってる。石を身につけさせろ。早く行け!」
「はい、ありがとうございます!」
胸が、暖かい。
燃えるような熱さではない。
懐かしさを覚えるような、暖かさ。
輝は思わず胸に触れてみる。その指先にも、ほのかな暖かさは伝わる。
あったかいなぁ……なんか、抱きしめられてるみたいやな。
輝は顔を上げた。
純白の空間。白以外の色がない、世界。自分の来ている服さえ、白で。なのに、自分の指先に視線を落とすと、ほんのりと赤を帯びている、自分の指先が見える。
なんや、これ?
指先を見つめつつ、輝は何かの声を聞いたような感覚を覚えた。
そう、呼ばれた。
誰に?
オレが声を間違えるはずはない。これは麦子や。麦子に間違いない。
『テルちゃん、帰ってきてよ。テルちゃんがいないと、私、一人でなんか出来ないよ。テルちゃん……』
オレは、帰る。
麦子のところへ。
帰るんや!
「……い! 先生!」
「……うるさいわ」
4日ぶりの、『先生』の声は史上最低の不機嫌を示していた。神田は内心でベッドから離れながら、
「よかったです」
「……ようないわ。結局、オレはどうしたんや?」
「えっと、アルディシンの宮殿で倒れられたんです」
「そんなことは分かっとる、で、そのあと、どうなったんや?」
「えっと……先生を、ある男の方がヘリまで運んでくれて……あ、病人はこうするんだって、先生をトナカイの皮にくるんで」
「で?」
「え、えっと……」
「つうことは、アルディシンまで行って、命かけて働いたちゅうのに、オレの報酬は、トナカイの皮つうことか? あ?」
「えっと、先生……」
これが、4日間生死の境をさまよった人の言うことだろうか?
神田は思わず考え込もうとするが、テルの言葉のマシンガンがそれを許さない。
「意識がのうなったオレはともかく、お前がおったんやろ? 当然お前が請求するもんやろ? 必要経費とか、計算しといたんか?」
「え? え?」
「骨折り損のくたびれ損やな」
マシンガンは続こうとしたが、咳で喉がつまり強制終了させられる。胸板に手をやったテルは、思わず声を上げた。
「……なんや、これ?」
まさぐって胸元から引っ張り出したのは、見慣れないペンダント。革ひもに結ばれたペンダントトップは見慣れない白濁色の石で。神田がそれを見つけて慌てて説明を始めた。
「先生をヘリに運んでくださった方が、自分の守り石だ、良くなるまで身につけさせろと仰って」
「マリオールか……」
感謝の気持ちで一杯になったのもつかの間、テルはあることを思い出した。
ルクレースイが言っていた一言。
『火の神の石は、ダイヤモンド』
「つうことは、これはダイヤモンド、やな! よっしゃ、これが報酬やな」
「……先生、あの、伝言が」
「なんや」
一瞬にして、機嫌が直ってしまった『先生』の機嫌を損ねるのは、簡単。神田は長いつきあいだから、良く知っている。
だが、機嫌を損ねる一言をあえて言わなくてはいけないのは、非常に辛いのだ。
だって、八つ当たりされるから。
「その、石のペンダントを貸してくださった方が」
「待て。貸して、言うたか?」
「……はい、貸すだけだ。いずれ必ず返しに来いと」
「……なるほどなぁ……つうことは、やっぱりただ働きか!」
先生の機嫌は、病院を退院しても、日本行きの飛行機に乗っても、あまりよくならず。『借りた』石のペンダントを眺めながら、時折ブツブツと呟いていたのだが。
まだ、歩ける状態ではない。
だが、成田に降りた時、輝は自分の脚で歩くと言い張った。神田が用意した車椅子を脇に寄せて、
「アホか。こんなの、乗ってられるか」
「ですが、先生」
「ええっちゅうねん」
「先生……」
両足に力を入れて、ゆっくりと歩き始める輝の背中を見、そしてその向こうの出迎えロビーに見えた一人の女性の姿を見て、神田はようやく悟った。
「……まったく、素直じゃないんだから」
神田のつぶやきは、輝には聞こえない。