凍れる雪の狭間で 22






「ただいま」
「……おかえり」
前者は嬉しそうに、後者は少し怒りぎみに、挨拶を交わす。
「ここまで来るの、大変やったんと違うか?」
「秘書の高原さんに連れてきてもらった。東京までは、里子ちゃん」
「ああ、そうか……」
会話が続かない。
妊婦である麦子はスタスタと歩いていくが、まだ恢復していない輝はどうしてもゆっくりと歩いてしまう。先へ先へと歩いていた麦子が、不意に振り返った。驚いたように、ゆっくりと歩く輝を待つ。
「大丈夫?」
「一応、生死の境、つうのを彷徨うたことになるかな」
「ふーん」
「心配かけたな」
「心配? うーん、ちょっとしたかな? どこかの美人のところに行っちゃったんじゃないかなぁって」
「……そんなにオレって、信頼されてないんか?」
「うん」
「麦子ぉ……」
また先へ先へと歩き出した麦子は、だが先ほどのように不意に立ち止まり、そして振り返って言った。
「お帰り!」
輝は驚いた表情を見せ、
やがて照れくさそうに微笑んで、小さな声で言った。
「ただいま」
「今日はハンバーグだよー、豆腐ハンバーグにサラダ」
「たこ焼きつけてくれ」
「えー、変だよ。ご飯にたこ焼きって」
「うちにはちゃんとたこ焼き器があるやないか。使わな、意味ないやろ」
痴話喧嘩なのか、単なるじゃれあいなのか、端から見ればよく分からないが、とにかく神楽坂輝は、帰った。
妻の元に。
守りたい者の元に。





2年後。
神楽坂家のポストに、ダイレクトメールとは明らかに違う手紙が届いた。
「ん?」
最初に気づいたのは、ポストをのぞいていた妻・麦子である。
純白の封筒はなんだか高そうなカンジの上に、裏返せば封蝋が施されている。
「んん?」
表返すと、AIR MAILと書かれている上に、MR. and Mrs. KAGURAZAKAと書かれている。
「ミスターあんどミセス? あたしも入ってるの? なんだろ?」
とにかく家に入ってレターオープナーを探す。足下に、長男・一郎が戯れる。
「いっくん、ちょっと待ってね。あ、あったあった」
オープナーで開けて、麦子はどきどきしながら、中の便せんを取り出して……深い溜息をついた。
「読めない……」





「来る5月18日、アルディシン市の西、ワイルエナンにおいて挙式します。よろしければおいでください……と書いてあるな」
「結婚式! 行きたいけどなぁ……」
と麦子は溜息をつきながら、ふくらみ始めた自分の腹部を撫でる。
「これじゃ、ちょっと無理かな」
「オレも辞退するわ」
「ダメ!」
仕事から帰ってきた輝に手紙を見せると、すらすらと読み上げてくれたのはよかったが、結婚式への招待状だったのだ。
それも遠く離れた、アルディシン。
2年前、アルディシンで輝が経験したことは、輝自身から全て聞かされている。
「テルちゃんは行かなくちゃ。だって、借り物があるでしょ。返してこなくちゃ」
「ああ……そうやった」
「大事なものなんでしょ? なおさら」
「わかったわかった……けど、あの2人が結婚するとはな」
輝はもう一度手紙を読み返す。
手紙を出したのは、マリオール・ジェナイソンとルクレースイ・アルディス。2人の結婚式に是非とも出席して欲しいと書いてある。





神楽坂輝さま。
いつかの折りは、大変お世話になりました。その後日本に無事帰られ、お子さまも無事に生まれたそうですね。おめでとうございます。
この度、私たち、結婚することとなりました。
式場……というほどではありませんが、来る5月18日に、アルディシン市の西、ワイエルナンにして挙式します。ワイエルナンといってピンと来ないかもしれませんが、ワイリエ・マリエラの屋敷のことです。
よろしければ、おいでください。
実は是非とも差し上げたいプレゼントがあります。
ルクレースイ・アルディス。
大公家には家名がなかったので、私がつけました。アルディス、歩く者という意味です。それでは5月にお会い出来るのを楽しみに。
守り石を忘れるなよ。
マリオール・ジェナイソン。
繊細に書かれた文字は、ルクレースイのものだろう。一番最後に書き殴ったような文字は、いかにもマリオールらしかった。





すっかり雪のないアルディシンは、輝のイメージとはかなり違っていた。
今まで空港などなかったこの国に、小さなプロペラ機専用の空港が出来た。おかげで、輝はコペンハーゲンから定期便のプロペラ機でアルディシンに入ることが出来た。
前回、アルディシンに来たときは、もっとも近いデンマークの空港から大公家がチャーターしたヘリでだったが。
小さな空港の、形ばかりの税関を通って、空港の外に出る。多分タクシーでもいるだろうと思っていたが、やはりそう甘くはなかった。
小さな小さな僻地の空港には、客待ちのタクシーなどいない……。
というより、タクシー自体この国にあったか?
輝は内心で毒づきながら、少ない荷物を溜息混じりに持ち上げた。
その時。
「よ」
あまりにも唐突に、あまりにも親しげに。
肩を叩かれて。
慌てて振り返ると、そこには。
「待ったか? 出かけるときに限って、病人が出るんだ。少し遅れた」
こんな爽やかな笑顔は、2年前には見なかったことを思い出しながら、輝は当面の疑問を突然現れた青年にぶつけることにした。
「ありがとうございます……でもなんで、ここが分かったんですか?」
「あ? 2年経って忘れたのか? オレはレタニエだぞ?」
輝は、マリオール・ジェナイソンのジープで、ワイエルナンに向かうこととなった。





舗装されていないアルディシンの道は、雪解け水でぬかるんで、ジープのような四輪駆動でなければ進まない。とはいっても、決して乗り心地は良くなく、輝は何度も舌を噛みそうになった。
「宮殿があったあたりが、一応首都になってて。アロードて街の名前がついた。ま、首都らしく名前をつけたわけだ。いつまでも宮殿、ではダメらしい」
「はあ」
「ま、アロードの近くまで行くと、舗装されているから、安心しろ」
マリオールの言葉通り、突然舗装された道が広がり、以前は見たこともなかった近代的な建物が幾つも幾つも、道に沿って姿を見せ始めた。
「急に民主制は、いくらなんでも無理だった」
マリオールが静かに語り始めた。
「ルクルは、急いで民主制に移行したかったらしいが、土台がないんだ、無理な話だ。とりあえず、移行委員会を発足させて、アルディシン全土に移行の認知と、国会議員選挙の告知を行った。ルクルは一応、宰相という形でトップに担ぎ出されて、選挙までの国政を受け持った」
「宰相ですか……」
「実質大公ではないが、実際は大公と同意だ……ルクルにとって苦痛でしょうがなかったみたいだな。1年で選挙が行われ、議員が決まって。その中から政府を形成させた。ちなみに首相は、お前さんも知ってるヤツだ」
「……ルクレースイ姫?」
「まさか。ルクルは嫌がって、政府が出来た途端、自分で辞めるって言い張って、ワイエルナンに帰ってきたんだから」
「……誰でしょう?」
「ギール・オートラルさ。謁見の間で至極当然なことを、ルクルに訴えていたのがいたろう?」
そう言われてみれば、そうだ。
自分に、「大公が招いた悪魔祓師か?」と聞いていた、壮年の男。彼は確か、ルクレースイがギール・オートラルと呼びかけていたような気がする。
「見ろ、宮殿だ」
マリオールに促されて、輝は車窓の外に目をやった。
その建物の佇まいは、2年前と何ら変わらないようだ。門前に立つ武官の制服が違っているようだけれども。輝はそのことを言うと、マリオールはハンドルを握ったまま、
「ああ。武官は廃止されたんだ。とはいえほとんどが警察官に採用されたからな。あれも、警察官の制服だ。まあ、予算があんまりないから、武官の時の制服とほとんど変わらないが。宮殿は、国会府と政府と司法府が全部一緒に入ってるから、警備もしっかりしないとな」
ま、オレみたいな侵入方法はないだろうけど。
マリオールは小さく笑ったが、輝は『侵入方法』でもう一経路あったことを思い出した。
「ハレシュン家からつながってた、抜け道はどうなったんですか?」
「あれか。カントル家につながる抜け道も、コンクリートを流し込んで固めたらしい」
「そうですか……」
「ハレシュン家は、ロナルフの跡を弟のランドルフが継いだ。今や、国会議員だ」
宮殿は、次第に遠くなり、また近代的な建物が加速度的に減り始める。
街を抜けたのだ。
「あのあとな」
マリオールの言葉は続く。
「オレとエレーナは、ワイエルナンに移ったんだ。ワイリエ・マリエラが、是非とも来てくれって言うから。ワイリエの屋敷は、びっくりするくらい広くて。ああ、それから宮殿を引き払ったルクル親子も来たし、ルクルたちと一緒に宮殿を離れたら身内のないって、連中も一緒に来たから今は結構な人数がいるんじゃないかな」
「……どのくらいの人数がいるんですか?」
「そうだなぁ、50人くらいかな」
「ごっ」
「ああ。それにマリエラは、弟子を取ったしな。子供もいて、結構賑やかだ」
「……そうですか」





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