「寝たようだね、ルシエルは」
「ええ。添い寝してくれたさくらちゃんも、そのまんまおねむね」
「あいつ……あとで、俺が部屋に運ぶよ」
小狼の言葉に、エリオルが苦笑する。
「なんだよ」
「いや、すっかり夫婦のようだ、と思っただけですよ」
「な!」
赤くなる小狼の横で微笑んでいた雪兎が声を上げた。
「あ……ユエが」
「なに?」
小狼が横向く間に、雪兎はユエに変化する。
「……エリオル。さくらの夢に関して、何か知っているんだろう?」
「え?」
「さすが、ユエですね。いいえ、知っていますよ。実際、私は会ったことはないんですけどね」
エリオルは、藤隆を見つめて、
「藤隆さんにも分かるように、説明しますが、わからければ、いつでも話を中断して欲しい」
「わかったよ」
そして、エリオルの一人語りが始まった。
16世紀のことだから、400年近く前になるね。
ここヨーロッパでは、精神的にも、生活全般に渡るまで、キリスト教が支配を強めようとしていた、時代だったんだよ。
キリスト教を中心とする世界では、『異端』を排除しなければならない。
『異端の排除』は、様々な方法で行われた。
魔女審判が、最たるものだよ。
少しでも、周りから外れた者は、それだけで異端の烙印を押された時代だよ。
誰もが、周りを怯えていた。
女の人は、魔女だけれど、男の人は『魔師』と言ったんだ。
魔師の中にも、有名な人が居てね。
テオフラトゥス=フォン=ホーヘンハイム……。といっても分からないかな? 『医師パラケルスス』なら分かるね?
ドイツの片田舎で心霊治療を行っていた彼は、『異端審判』で『魔師』と判断された……。
当時のヨーロッパ世界で、キリスト教から離れた世界では、生きていけない……。だから、彼は自分は異端ではない、と必死に弁解を重ねた。
そして、最後に、『自分は悪魔を退治することが出来る』と宣言したのだ。
本当に悪魔退治を行ったかどうかは、史実にはないからどうなったかは、分からない。けれど、結果としてパラケルススは排除される『魔師』ではなく、『良い魔師』となった……。
ともかく、パラケルススの時代から、キリスト教では、悪魔と戦う為には『魔師の魔術』が必要と考えたことは事実だね。
これ以降、表沙汰にはならなかったものの、忠誠では魔術の研究が進められていった。その最たるものが、『錬金術』だよ。
男がいた。
老齢にさしかかりながら、ドイツ皇帝の教師を務めたほどの見識者であるという自負に満ちた視線を持っていた。
名を、ハインリッヒ=コルネリウス・アグリッパ。
女がいた。
少女からようやく脱皮したばかりの若々しい、そして代々受け継いできた魔術師の血を余すところなく、活用していた。
名を、マルグリット=カロリン・アグラス。
ドイツ皇帝の哲学教師、皇太后の侍医。見識者ゆえに、アグリッパはさまざまな地位と、名誉と、権力を与えられた。
だから、与えられた権力以上のものを求めただけ。
自らの知識を基に、新たな生命を生み出すこと。
人の生み出すことの出来ない生命を。
中世ヨーロッパにおいて、『錬金術』は『魔法』であり、『科学』であった。
その究極の目的は、生命体、ホムンクルスを生み出すこと。
『偉大なる魔師』パラケルススでも成し得なかったことを、アグリッパは目指していたのだ。
だが、一方で錬金術は畏れられた。それゆえ、アグリッパは与えられた地位も、名誉も失い、ヨーロッパ各地を流れ渡ることになる。『哲学者アグリッパ』というかつての名だけをひきずって。
そして、パリ。
男は、少女と出会う。
はらりはらり。
白磁の頬を、真珠に似た涙が零れる。
彼女が立つ水面に、ぽたりぽたりと涙が落ちて。
波紋が広がる。
さくらは、ぼんやりとその様子を眺めている。
俯いていた彼女が顔をあげた。
緩やかなウェーブは豊かに広がった黄金の髪を、一層華やかに見せている。
涙が零れ落ちる双眸は、セビリアン・ブルーの海を思わせる艶やかさに満ちている。
……あの人を、止めて……
「あの人?」
完璧に整った容貌。彼女は止め処なく流れる涙を止めようともせず、さくらに、白魚のようなたおやかな手を差し伸べた。さくらも、左手を伸ばす。
「あの人って……」
「……クレイメネス。私の半身。アグリッパが生み出し、マルグリットが魂を入れた、光の存在」
「……光の存在?」
「私の名は、フィリディア。クレイの半身、地の存在……クレイに伝えて。私たちの存在は、混乱を生み出す……私の元で、再度の眠りを、と」
「……伝えればいいの?」
「ええ。それからこれを持っていって」
いつのまにか、さしのばされた掌の中に、小さな璧。深い深い、深緑に満ちた、そして魔力が満たされているのがよく分かる。
「これがあなたを助けるわ。星の力を持つ、小さな魔術師。そして、わたしたちを助けて。そうしなければ、均衡が崩れるわ……」
「フィリディアさん……」
「……私たちを救って……小さな魔術師」
「おはよう……」
ねぼけ眼で、それでも一応、顔を洗って、服を着替えて、だけどもぼんやりとした顔で、さくらが食卓につく。小狼が黙って、トースト皿を置く。
「ありがと、小狼くん」
「眠そうだな。どうかしたか?」
「ん……夢、見たんだけど、どんな夢か、忘れちゃったの」
「……そうか」
小狼が、さくらにトーストの焼き加減を確認している様子を、ほほえみながらみつめていた藤隆が、体の割には巨大に見えるワッフルにかぶりつくケルベロスに声をかける。
「さくらさん、夢を見たようですね」
「……そやな。やけど、多分さくらは思い出せんやろな。誰かが邪魔しとるんか、そうでなければ、ただ夢か」
「……眠そうですね」
「仕方ないやろ、さくらの夢は魔力を使う夢、やからな」
エリオルの一人語り。
かつて、パリにあった、『作られた生命体』。
優秀な学者と、稀代の能力者。
気にいらないな。
クレイは、内心舌打ちをしたい気分だった。
不世出の魔術師と呼ばれた男。
クロウ・リード。
あの男と同じ、『匂い』を持つ者が、何人もいる。
一人で、充分だ。
……また、封印されるのは、ごめんだ。
フィリディア。
私の半身。
光の存在だったクレイを、支えるもの。地の存在。
きっと、どこかで、『封印されている』。『苦しんでいるはずだ』。
『解放してやらなくては』。
そして、このマルグリット、魂の創造主と同じ名前を持つ、この女の能力を使って、我々を苦しめたものに、我々を認めさせてやる。
決意という名の憎悪。
真珠に似た、艶やかな涙がこぼれおちる。
クレイ、私の半身……。
途中で眠ってしまったさくらには、エリオルの話を小狼が伝えることになっていた。ペパーミントティーを知世に頼んで、小狼は朝食を済ませたものの、まだ少しぼんやりしているさくらをバルコニーに連れ出す。
「なに、話って?」
「……昨日、さくらがルシオルと寝たあとだけど、エリオルがある話を聞かせてくれたんだ。さくらも聞いておいた方がいいと、思って」
「うん」
「かいつまんで話すからな。分からなかったら聞いてくれ」
「はい」
神妙な面もちになったさくらをみつめて、小狼は続けた。
「アグリッパって男がいた。皇帝の家庭教師とか、主治医とか、とにかく賢い、学者だと言われていた男だ。当時、学者としては最高の地位を約束されていたらしい。だけど、性格に問題があって……協調性とか、って意味だぞ。とにかく、地位を追われて、でも過去の名声だけで暮らすことができるだけの、学者だった。
そのアグリッパが、パリに来た。そして住み着いたんだ。
自分のしたかった研究の為に。
アグリッパの研究は新しい生命体、つまり人工生命体を生み出せるか、ということだったけど、しばらく失敗し続けた。
そんな時、ある女性に逢った。
それが、マルグリット・カロリン・アグラス。
この人は、アグラスという代々魔術師を輩出してきた一族で……わかりやすく言うなら、うちの、李一族と同じだ。このマルグリットという人は、アグラス一族の中でも、稀代の魔術師といわれたくらい、すごい人だったんだ。
アグリッパと、マルグリット。
この二人が協力して、人工生命体を生み出すことが出来たんだ。
ホムンクルス……ユエやケルベロスみたいな存在で、魔術を使うことが出来る、存在。
二体で一対。そんなところまで似ているけど、とにかくこのホムンクルスは、周囲から最初は賞賛され、やがて、畏れられるようになった。
……強すぎる能力は、人の意図と違うことに用いられた時、排他されるからな。
やがて、アグリッパ自身に疑惑……つまり、そういう存在を作って、パリの人間を殺してしまおうと考えているという、疑いがかけられた。
当時の宗教、キリスト教っていうのは絶対で、宗教的に疑いをかけられたら、どこに行っても生きていけなかった……魔女裁判って、学校の授業でやっただろ? あれと同じさ。アグリッパは魔女裁判にかけられたんだ。
そして、同じように魔女裁判にかけられたマルグリットは、拷問されて亡くなった……。
アグリッパは、ホムンクルスを封印することにしたんだ。
自分が生きる為に。
魔女裁判の結審は、アグリッパがホムンクルスを消滅させ、以後、これらに関する研究をしないことだった……。
そして、彼はそれを実行した……。
封印されたホムンクルスは、表面上は、抹殺されたことになっていた。
エリオルは、一度だけ、クロウ・リードの時によみがえった一体に会ったらしい。そして、もう一体が夢に現れて、蘇った一体を封印するように、頼んだ。クロウは彼女の望むようにしたんだ」
「彼女?」
「蘇った一体は、クロウの力で片腕を切り落とされて、再び封印されたらしい。名前は……クレイメネス。夢で助けを求めた一体は、フィリディアと言ったそうだ」