娼婦の子。
マルグリットには、何をするにもその蔑称がつきまとった。
6才になるまでは、普通の暮らしをしていたのに。
女優として日々を忙しく、身を粉にして働いていた母が急死し、やがて現れた父親の使いと名乗る数人に、誘拐されるように、アグラス家に迎えられ。
『この子の母親は娼婦だったんだよ』
『なんだか、匂うわね。ああ、娼婦の匂いだわ』
隠そうとしない敵意にさらされて、マルグリットは怯えながら暮らしてきた。
唯一の救い。
唯一の支え。
「お前は、私の子だ。だから、責任持って養育しよう」
連れて来られた日。怯えていたマルグリットに優しく声をかけたのは、アグラス家の統領であった、父親だった。だが、その父親も病死して、8年。
アグラスの中に、マルグリットの居場所はない。
アグラスを名乗る者なら、必ず一度は受ける魔術を覚えることすら、マルグリットには許されなかった。
アグラスの統領は、魔術を心得た者しかなれない。
それはアグラスの統領となるために、否、唯一無二の条件だった。
父は優れた魔術師だった。だが、魔術師としての能力は、現代社会の中ではほとんど必要とされなかった。アグラスは魔術を生業とする時代を既に過ぎていた。アグラスの統領には、成功しつつあった自動車会社を一層拡大させ、維持していく能力のみが求められるようになった。だから、マルグリットの父の跡を継ぐ者は、魔術は心得ているが、大した能力者ではなく、どちらかといえば社長としての能力を買われたものであって、長老たちの大反対を押し切って、アグラス内部の有力者が推し立てた者だった。
当然ながら、たった一人の統領の娘であった、マルグリットは蚊帳の外であった。
マルグリットは忘れない。自分たちの意見が通らなかった長老の一人がマルグリットに投げかけた言葉を。
『お前は、なんだ。統領の娘でありながら、娼婦と呼ばれた女優の娘。アグラス稀代の魔術師と呼ばれたマルグリットと同じ名前を持ちながら、魔術の心得もない。お前は、アグラスに必要ない』
飛び出すように出た、アグラス。
誰も、止めるはずもなかったのに、体裁が悪いからと、引き戻されるのを少しは期待していたのに、誰も見向きもしなかった。
アグラスという、無関心な居場所を亡くしたマルグリットに、世間の中にも居場所はなかった。ふらふらと迷い込んだ、骨董店の倉庫。
そこで、マルグリットは封印されたクレイに出会った。
リビングに集まったメンバーの面もちをざっと見回して、エリオルは苦笑する。
「そんなに緊張しないでください。夕べの先の話は、すぐ済む話ですから」
エリオルの視線は、小狼に向けられている。小狼の隣に座ったさくらが、小さく小狼の袖を引っ張った。
「小狼くん……」
「わかってる!」
「……エリオル、はじめてや」
ケルベロスの促しに、エリオルは頷いて、
「アグリッパとマルグリット・アグラスが協力して、ホムンクルスを生み出し、しかし封印したことは聞いたね」
エリオルの言葉に、さくらは頷いて、
「でも、一度甦って、クロウさんによってもう一度封印されたって」
「……そう、あれはクロウ・リードがヨーロッパに初めて来た時のことだったんだ」
19世紀初頭。
フランスは、フランス革命を経て、イギリスから波及した産業革命を遅々として進めながら、一方でナポレオン1世の台頭という、時代の急流の中にいた。
皇帝とまでなったナポレオンが、ヨーロッパ各国の脅威となり始めたこの頃、クロウ・リードはふらりとパリに現れたのだ。
呼ばれた。
夢に現れた、女性。
『……あなたは、誰?』
『私の夢に現れる、それは何かの寓意の元でしょう……私に何をしてもらいたいのですか?』
『……私は、フィリディア。私たちは封印された。そして、このまま眠り続けるのが、定め』
『……』
柔らかく広がる黄金の髪。セビリアン・ブルーの双眸が、クロウを真っ直ぐ見つめていた。
『私たちは、創造主によって眠るように定められた。私はそれを受け入れることができた』
「でも、できなかった者がいたのですね」
クロウの言葉に、フィリディアは深く頷いた。
『私の半身……光を掌る、クレイメネス。最後まで、封印されることに抵抗していた……』
「なるほど。それで封印が十分ではなかったのですね……それでは、あなたは私に何を望むのですか? あなたの半身、私はどうすればいい? 滅する? それとも封する?」
フィリディアは数瞬無言のまま、はらはらと大粒の涙をこぼして、
『封して。私の元に。私の側に。私の半身を戻して……』
「でも、それって!」
沈黙のしじまをうち破ったのはさくらだった。黒く大きな瞳に怒りと困惑を宿して、エリオルに抗議する。
「それって、フィリディアさんの言葉なんでしょ? じゃ、クレイメネスって人の気持ちはどうなるの? 誰だって封印なんてされたくないし、自由に生きたいよ?」
「そうだね、さくらさん。それには深い訳があるんだ。でも、もう少し私の話を聞いてくれないか」
エリオルのやんわりとした制止に、さくらは小さく頷いた。エリオルが続ける。
「クレイメネスというのが、とても賢い存在で、最初に封印された時に力を抑えて封印されたらしくてね。それでも数百年を要して、封印を解いて甦った。人として全く違和感なく、パリの下町に住んでいたよ」
『なぜだ! オレは封印などされたくない!』
『その気持ちは分かるが、私はフィリディアに頼まれて来たのだが』
『……フィリディア?』
クレイメネスは目を見張り……。
私の願いは、一つ。
私の半身。
私とともに生まれ、私と等価の存在。
クレイメネス。
クレイの前に、私を呼び出す魔法陣を開いて。
あなたに頼みたいことは、それだけ。
その先は、私とクレイのこと。
あなたには……なんの罪もない。
……でも、もしかしたらもっと違うお願いをすることになるかもしれない。
クロウはフィリディアの望み通り、クレイの前に魔法陣を開いた。
現れたフィリディアはひどく優しく、儚げな微笑みの中で、クレイの左手を取った。
「さあ……クレイ。一緒に帰りましょう」
「フィー?」
「ここは、私たちのための場所ではないわ。二人だけの場所へ……」
「いやだ!」
フィリディアに捕まれた左手を必死に、振り払おうとするが、かなわない。
かなうはずがないのだ。
フィリディアは、地の存在。力も象徴している。クレイメネスは思い至った。
フィリディアは連れていくつもりだ。数百年、耐えてきた沈黙の世界。
何もない、あの世界に。
「フィー……どうして」
「私たちは、この世界にいてはいけないのよ」
セビリアン・ブルーの双眸からこぼれ落ちる、真珠に似た涙。
それを見るだけで、クレイメネスは自分の強固だと思っていた意思が少しずつ溶かされていくような、そんな錯覚を覚えた。
しかし、これだけは譲れない!
「いやだ!」
低い拒絶の声とともに、クレイは自らの左手を見つめた。そして、呪文を唱える。その呪文に気づいたフィリディアが声を上げる。
「クレイ!」
「オレは、自由に生きたいだけだ!」
次の瞬間。
フィリディアがつかんでいたクレイの左手首から二の腕にかけて、白い光を放ったかと思うと、
パリン。
小さな小さな光の粒子となった、左手はあっという間に四散した。
支えを失ったクレイメネスは危うく転倒しそうになるが、すんでのところで踏ん張る。それをフィリディアは信じられない表情で見つめていた。
「クレイ……損傷の呪なんて、どこで!」
「構わない。俺たちには主が居ない! 罰せられることもない!」
「そりゃ……すごいやっちゃな」
「……信じられませんね」
珍しく意見の一致した、ケルベロスとスピネルだった。キョトンとした表情の小狼とさくらにスピネルが解説を加えた。
「ホムンクルスは、自損したりはしないんです」
「?」
「そういう認識がないから……としか言えないんですけど、もし損傷の呪なんて唱えたら、私たちホムンクルスはその存在自体が不安定な上に、自然に逆らって生まれてきていますから、創造主が損傷の呪以上の痛みを引き受けてしまうんですよ。もちろんホムンクルスも傷つきますけどね」
フィリディアのあえかな微笑みは、しかし一瞬で修復され、次の瞬間まだよろめいているクレイに向かって、呪文を唱え始めた。
『来たれ、我が力。
我が名はフィリディーアーニス。
地の聖霊よ。
我が名に置いて命ずる。
クレイメネスの足を地に。クレイメネスの動きを我が手に』
思いもしなかったフィリディアの呪に、蹌踉めいていたクレイメネスが声を上げる。
「フィル!」
「どうしても、連れていくわ。私たちはこの世界にいてはいけない、存在だから!」
「馬鹿な! こんなことをしても無駄だろう。俺たちは、拮抗しているんだから。力は等価だ。そんなことをしても」
「クロウ!」
フィリディアの声に、クレイメネスはクロウの存在を思い出した。
地の存在・フィリディア。
光の存在・クレイメネス。
全く同じに作られた存在。性こそ違え、力の強さ大きさは全く同じ。
だが、そこに。
拮抗を解く存在がいたとしたら。
……でも、もしかしたらもっと違うお願いをすることになるかもしれない。
クレイが封印されたくないと言った時、縛めることは私に出来ても、封印までは出来ない。
なぜなら、私たちは力までが等価な存在だから。
その時は、あなたが封印して。
私も一緒に……封印して。
『我が名は、クロウ・リード。
我が名において、我が力とフィリディーアーニスの力において、ここに封印を施す』
「やめろ!」
クレイの制止の中、フィリディアがクロウの声に唱和する。
『我が名は、フィリディーアーニス。
我が名において、地の聖霊の御名の元に。
我、ここに封印されん。
わが半身、ここに封印されん』
『封の呪において、永久の眠りを与えん』
『封の呪において、永久の眠りを与えん』
そして、一面に光があふれ。
クレイの絶叫が消えるとともに、光も薄れ。
光が去ったあとには、フィリディアの姿はなく。
クレイの立っていた場所には、一体の小さな銅像があり。
雄大なポーズで立っていると見える銅像の顔は確かにさっきまで、そこにいたクレイメネスで。
封印は、行われたのだった。
「以上が、クロウ・リード……とフィリディアが、封印を施した顛末、です」
エリオルの言葉に、小狼は眉を顰めて、
「しかし……さっきのさくらの疑問は当然じゃないのかな? なんのために、フィリディアはそうもしてまで、自分たちを封印したかったんだろう?」
「それはですね……」