「私たちは、決して完全な状態で生まれてきたわけではない……」
「……というと」
フィリディアは悲しそうに微笑みながら、
「私とクレイは、自らの中で魔力を生み出すことが出来ない。その欠点を補うために、創造主であるアグリッパとマルグリットは常に身近にあるものに存在する聖霊を用いることにした。
私は、大地。
クレイは、光」
「……悪くない、アイディアですね」
「ええ。でも、例えば私の場合、大地の聖霊の力を使うことが出来ても貯めることができないという、欠点がある。常に大地の聖霊の力を使い続ける。クレイも同じ。でも、聖霊の力は限りないように思えてそうではない。いずれ、限りが生まれる。マルグリットはそれを見抜いていたから、私たちを魔術師としてのホムンクルスではなく、普通の人として生きられるように、変えようとしていた……でも」
「……」
魔女裁判で、命を落とした。マルグリットから始まった魔女探しという名の弾圧は、マルグリットの研究を引き継いだアグリッパから研究に費やす時間を奪い、資金を奪い、資料を奪い、そしてアグリッパ自身も拘束された。
「残念……です」
たとえ、クロウがいかに優れた魔術師でも、他人が作ったホムンクルスは、改良できない。それはたとえ師匠と弟子という、身近な存在でも、魔力が少しでも違うと、ホムンクルスはバランスを崩して消滅してしまうからだ。
クロウでも……駄目なのだ。
マルグリットとアグリッパでなくては。
マルグリットは死の間際、フィリディアに魔力を飛ばして、伝えた。
『フィリディア。ごめんなさい……あなたたちを救えない。
あなたたちの存在は、いずれ世界の脅威となる……大地の聖霊の力、光の聖霊の力。それは人にとって、この地に住まう者にとって、生きていく上でかけがえのないもの。
でも、あなたたちの存在にも必要なもの。私は決断できなかった。あなたたちを葬ることなど、できない。おそらく、アグリッパにとっても。
ごめんなさい……だから、沈黙のしじまで、封印の中で眠り続けて。いつかあなたたちを救う者が現れるまで。
絶対的な魔力ではなく、心で救える者が来るまで』
「そして、マルグリットもアグリッパも逝き、私は抵抗するクレイを連れて眠りに着いた……」
「……しかし、心で救える者、とは?」
「分からないわ。マルグリットは、予知の力も持っていたけれど、あまりにも漠然としたものが多かったから…予言なような言葉はいくつも残してくれたけれど」
「……つまり、そのクレイメネスっつうのを、ほったらかしにしとったら、なんか害があるっつうことやろ?」
ケルベロスの言葉に、エリオルは真剣な顔で頷いて。
「そのようです。フィリディアは自分が大地の存在だから、大地の精霊の話しかしませんでしたが、あとでクロウ・リードが調べたところによると、クレイメネスが力の供給源としているのは、光の精霊で、この精霊は単に光を司るだけでなく、気温も関係しているようなのです」
「気温?」
「はい、調べました」
歌帆が、手にしていたノートパソコンを全員の視線が届くように掲げて、
「今年のパリの平均気温は、例年の気温よりも4度も高くなっているそうよ。それに異常気象が続いているって。雨がほとんど降らない、そのうえ地中海からの季節風も未だ吹かない。季節的にはもうとっくに吹いてもいいそうだけど。夕べのニュースでは、エルニーニョもラニーニョもないのに、この異常気象はヒートアイランドだろうかって、気象予報士が頭抱えていたわよ」
「あ」
さくらもようやく気づいた。
そう言われてみれば、このパリに来てから一度も雨が降っていない。
「……では、この先どうなると思われる?」
ユエの静かな声に、全員がエリオルの答えを待った。
エリオルは目を閉じたまま、応える。
「最悪の場合です。まず、異常気象が続き、水に事欠くようになる……光の精霊の力が吸収されつづける限り、このヨーロッパは枯渇していくでしょう……その上、大地の精霊が共鳴を始めたら」
「共鳴?」
思いもしなかった言葉に、小狼が首を傾げた。
「ええ、共鳴です。フィリディアの意思とは関係なく、大地の精霊の力が枯渇した光の精霊の力を補填しようとして、暴走を始めることすら、最悪の場合ではあり得ます。そうなったら、いくらフィリディアでも抑えが効かない」
暴走。
それは、クレイメネスやフィリディアの意思とは別のところで、始まるのだという。
想像して、さくらは哀しくなった。
すると。
さくらの手を、力強く小狼の手が包み込んだ。さくらが驚いて顔を上げると、小狼はエリオルを見つめて、
「方法、ないのか? そのクレイを封印する以外に」
「……どうでしょう。まさか、こんな事態が起こるとは予想していなかったので。それに、その方法を探るためには、アグリッパか、マルグリットが残した資料を見ないことには」
「ホムンクルス製作の過程、ということか」
「ええ……となると、アグラス家ですね」
そして、エリオルがようやく微笑んだ。その笑みを向けられて、小狼が思わず顔を引く。
「確か、李家はアグラス家が経営している自動車会社の香港支社に出資してましたね」
「……どっからそんなこと」
「さあ、どこからでしょうね?」
「つまり、君の最終目的はアグラス家の統領、ということになるのかな?」
「……え?」
アグラスの悲惨な体験を話したマルグリットは、クレイの静かな、しかし思いもしなかった言葉に、一瞬言葉を失った。
隻腕の男は、いつものように静かに小柄なマルグリットを見下ろしている。
その表情は、何ら変わらない。
「統領……に?」
「そう聞こえたが? うむ、それもいいかもしれないね。今の君の魔術なら、無理ではないかもしれないな。愚かな一族の者に、マルグリットの力を見せつけることはいいお仕置きになるだろうから」
「そうかしら」
「ああ」
愚かな、女。
あれほど賢明で、純粋無垢だった、かつてのマルグリットとここまで違うのだろうか? 同じ名前を冠しているというのに。
かつてのマルグリットが100年に一度の魔術師なら、このマルグリットは20年に一度の魔術師といったところか。
だが、自分に力があったということだけで、この女は充分なのだろう。
一つ魔法を覚えるたび一喜一憂し、『アグラスの連中を見返してやる』と呟く。
一つの思いにこれほど、固執出来るものなのか。
否。
自分もそうだ。
フィリディア。
必ず、救い出す。
ああ、この思いも『固執』か……。
「はい、はい……ありがとうございました」
電話の向こうに軽く一礼して、小狼はようやく受話器を置いた。それから肩で深い溜息をつく。さくらが心配そうにのぞき込んだ。
「大丈夫? 小狼くん」
「……まあな。とにかく、アグラス家から直接ここに連絡が来るらしい。明日の朝には、ってことだった」
「そうですか。では、それまでに調べられるものを調べてしまいましょう。そうですね、二人にはケルベロスとユエを連れて、行ってもらいたい場所があるんです」
エリオルはすらすらと地図を書き上げ、さくらに渡した。
「クロウ・リードの記憶によると、この辺りで封印を施したそうです。おそらくは残っていないとは思いますが、クレイメネスの銅像が残っていないか。その確認だけでもしてきてもらえませんか?」
そしてユエから姿を変えた雪兎、そして小狼とさくら、さくらの背負うディバッグの中にはケルベロス。その4人で出発した。
「ね、小狼くん」
「?」
小学生の頃とは比べようがないほど身長が伸びた小狼。
もちろんさくらも身長は伸びたけれど、学校のクラスでも低い方だ。
というわけで、足の長さも違うわけで。
快調に歩く小狼のあとを追いかけて、さくらは小走りでついていきながら、声を上げた。
「あのね」
不意に、小狼が足を止めた。さくらは思わず小狼の背中に飛び込みそうになる。
「ほえ!」
「さくら」
「ん?」
「ローラーブレード履いたらどうだ? オレについてくるの、大変だろ?」
「あ、うん」
慌ててブレードを履くと、さくらは不意に顔を上げた。
もう何年も。
何年も見慣れた小狼の顔。
さくらが成長するよりも早く、小狼は青年になったような気がする。
「小狼くん」
「ん?」
「香港への電話って、そんなに嫌だった?」
いきなりの核心に、小狼は思わず目を見開いた。
どうしてこの幼い頃からの恋人はずばり言い当てるのだろうか?
「いや、いやじゃないんだけどな」
「ほえ?」
「……あんまりこういうお願いごとをしたことがないんだ」
照れくさそうにあらぬ方向を見ながら、小狼は呟くように言った。
『珍しい、わね』
母の声は相変わらず、涼やかで凛としている。既に孫がいようとは、誰が想像できるだろう。そんなことが瞬間頭をよぎったものの、小狼はすぐに聞き返す。
「そうですね」
『ええ、珍しいわ。で、そのお願いというのは、何なのかしら?』
「李家が出資しているAGカンパニーです。AGカンパニーの本社と連絡を取って欲しいんです……アグラス家の古文文庫を見学したいので」
一瞬の沈黙のあと、母親が続けた言葉に小狼は思わず息をのんだ。
『AGカンパニーね。創始者一族が、アグラスだったわね。確か。アグラスと言えば、稀代の魔女がいたはず……マルグリット・アグラスだったかしら?』
「母上」
そこまで詳しくは説明していないのに、なんという鋭さだろう。だが、母は続けた。
『いいでしょう。すぐに連絡を取りましょう。以前、アグラス家の統領を晩餐に招いた時に、我が家のことを知っているような物言いをされていましたからね、話は通るでしょう。それはそうと、小狼。さくらさんに伝えなさい。あなたなら、きっと大丈夫だからと』
「え?」
『わかったわね』
「はい……ありがとうございました」
最近の日課。
まず、仕事から帰ったらとりあえずパソコンを開いてみる。
メールが必ず来ているから。
ほとんど日記のように、毎日メールは送られてくる。
『とーやへ。今日は何事もなく、平穏無事に終わってしまいました』
「……どうせ、平穏無事じゃないんだろうけどなぁ」
桃矢は冷蔵庫から取り出したミネラル・ウォーターの蓋を開けて、一口飲んだ。
『実は一昨日ですが、お客さんが来てます。エリオルくんと、観月先生と、二人のお子さん(ルシオルくんって言います)それから……えっと総勢5人で来てます』
「おい、総勢って、あの辺のメンバーだろうが? 仮にも作家がそういう表現力でいいのか? ゆき」
ざっとメールを斜め読みして、桃矢はパソコンの前から離れた。
立派な一戸建て、である。
父・藤隆が妹・さくらが生まれ、母・撫子が亡くなり……、そんな混乱の中で、それでも藤隆がローンを組んで買った、一戸建てなのだが。
藤隆もさくらも、パリ。
というわけで、桃矢はこの一戸建てに一人、ということになる。
「なーんか、やな感じなんだよなぁ。全部が全部、予想通りに進んでるのが、気にくわないなぁ」
ぼやきながら、桃矢はミネラル・ウォーターを飲む。
桃矢の魔力は、雪兎の『身体』を維持するために、雪兎に、いや、ユエに与えた。
だから、今の桃矢は何も感じない。
とはいっても、魔力を失う前に『知った』ことは忘れていない。
これからどうなるのか。
さくらの将来のこと。
ただ漠然ながらも、桃矢は感じていたのだ。
今度のさくらのパリ行きも、以前『さくらが外国に行く時は何かあるような』気がしていた。だから、『父・藤隆が側にいた方がいい』と思った。
それはかつての桃矢が感じたことだ。
それは、予知、と呼ばれる。
桃矢もそれは知っている。だがこれまで誰かに言ったことはない。
言うまでのことがなかっただけなのだが。
ベランダに出ると、夏の重さを含んだような湿気が桃矢の身体を包む。桃矢は空に浮かんだ見事なまでの満月を見上げて、
「むかつくな……、全部感じた通りに物事が進むなんてな……」
誰の耳にも届かない呟きを落とした。