空の彼方で雷鳴 03
包帯が取れたことで、一度は全く見えなかった視力は完全に回復した。
したが、少女の目は遠くを見ている。
『みのるさん、もしあなたさえ良かったら、私のところにいらっしゃい』
初老の女性。
担当の医師が、『カシオペア博士だよ、君のお父さんの上司だった人だ。君のこと、何度も心配して見に来てくれたんだ』と説明してくれていたから、決して戸惑うことはなかったけれども。
『いらっしゃいって……』
『調べてみたけど、あなたの親戚は近しい人はいらっしゃらないようね』
『……』
『だから、もしあなたさえよかったら私の娘として養女に来て欲しいの』
『どうかしら?』
『……お願いします』
縋るべき、育ての腕は喪われてしまった。
少女は少女らしからぬ機転を効かせた。
恐らくこのままだと、自分は養育施設に移される。
だったら、養女に来て欲しいと言われるなら、そのうちに引き取られる方が良いのではないか? 父の上司だった『カシオペア博士』がどういう人物か、と言うことはその時のみのるには関係なかった。
遠くから地響きのような音がする。
なんだろう?
みのるは視力の戻った眸を、窓に向けた。
いつの間にか空は重く垂れ込めた雲が、幾層にも積み重なっている。
熱帯の天気は移ろいやすい。さっきまでの太陽は今では姿を消していた。
「あらら、スコールかしら? 雷がなるかもね」
そう言って通りがかりの看護婦が声をかけた。
「雷?」
「そう。よく鳴るのよ、これが。結構大きいからね。怖くなったら呼んでね」
「はい」
重い雲からあっと言う間に、大粒の雨が舞い落ち始め、地響きのような音は一層激しさを増した。
夕方でありながら、夜のような暗さが辺りを押し包む。
やがて夜の暗さを切り裂くように、瞬間、純白の光が走った。
続く、雷鳴。
あまりの音の大きさに、みのるは思わず耳を両手でふさぎ、それから丁寧にも布団の中に潜り込んだ。
そうしていても次から次から雷鳴が、腹腔に響くように伝わってくる。
「大丈夫、大丈夫だから」
いつの間にかみのるは独り言を呟いていた。
「大丈夫……」
『大丈夫よ、みのる。雷は驕れる者の上に、怒りとして落ちてくるのだから』
突然、亡き母の声が脳裏に甦る。
時折、子供には理解出来ないことを囁く母だった。
その難解な言葉は、子供にとっては一歩大人になったと感じる瞬間だった。だからみのるは母の、不意にわき出る難解な言葉が大好きで、何度も意味を問いかけた。
『どういう意味?』
『雷はね、自分自身に対する戒めなのよ。自分だけが正しい、と思っている人にだけ、雷は落ちるの。みのるは、そう思ってないでしょう?』
『うん!』
『雷はみのるには落ちないわ。きっとね』
その時。
地を揺るがす、雷鳴にみのるは肩を小さくする。
そして。自分の頬を伝う涙に気付いた。
一度気付くと、涙は止まらなくなった。
廊下を歩く看護婦達に聞こえないように、みのるは小さな声で囁いた。
「おかあさん……」
「おとうさん……」
「あたしを置いて、逝っちゃったの……?」
みのるの呟きは、雷鳴にかき消される。
雷鳴が遠離った頃。
みのるは泣き疲れて、布団の中で眠ってしまった。
雷雲が去って、空には底抜けに青い空が戻った。
しかし、みのるの表情が晴れやかになるには、もう少し時間を要することとなる。
千年の夏。
とこしえより続く、暑き楽園。
シンガポールは、欧米人にとっては別世界である。
だからこの地は寒さを、欧米のせちがない空気を一時でも忘れさせてくれる場所だ。
『楽園』と呼び称しても、熱帯に属する場所である。
当然、暑い。
だから、欧米人はシンガポールの、肌に染み込むような暑さを形容した。
千年の夏、と。
シンガポールの暑さは、ラッフルズが植民地をうちたてた時と変わらず、シンガポールに存在する。
「どう、病院は?」
「……つまんない」
「そう」
みのると、カシオペア博士の会話はいつも単語の応酬のようだ。少なくとも博士は務めて問いかけようとするけれども、みのるの反応は鈍い。
みのるの鈍い反応が何を指し示しているのかは、本職が心理学者である博士には分かっていた。
困惑と、諦感。そして逼塞感。
戸籍上は母娘になった二人だが、戸籍上の関係と心理的関係が一致しているわけではない。みのるの反応がそれを示している。
「再来週ね、退院許可が下りたわ。ようやく、病院出られるのよ」
家に帰れるとは、言えない。
博士は視線を向けようとはしない、みのるに続けて声をかけた。
「それからね、私の家にみのるさんの荷物を移しておいたわ。そのまま、使えるようにしたの」
「ありがとうございます」
「……もうひとつ、いいかしら。私はいつも家にいられるとは限らないから、あなたの『姉』と『兄』に顔を出してもらうように頼んでおいたから」
初めて。
今日初めて、みのるが博士の顔を見た。
「姉と、兄?」
「ええ、そうよ。逢ってみれば、分かるわ」
「エレクトラ。Drクエーサーが【A-K】プロジェクトに戻ったぞ」
険しい表情で、コードは妹に告げた。
その口調は厳しく、Drクエーサーを糾弾する。
「よくもまぁ。俺様でもそれほど図太くはなれないぞ」
「……おばあさまがよく承認しましたこと。おばあさまも、判断に困ったでしょうに」
事故から2ヶ月。
世間の話題は、事故から離れつつある。事故の原因解明を糾明する声は次第に薄れ、事故処理に当たっていたDrクエーサーへの風当たりも弱くなった。そんな時期である。
今や事故原因よりも、某国大統領の不正賄賂への糾弾が叫ばれているのだから。
電脳空間でいると、情報は瞬時に入ってくる。だからDrクエーサーの復帰は、エモーションから正信に伝えられたのだった。
「……そうなんだ」
「お兄さまは随分と怒ってらっしゃいましたけど。でも、Drクエーサーが自ら一線を退かない限り、退職に追い込むことは無理だろうとも。凄い剣幕でしたわ」
「コードらしいや」
いつも不機嫌そうなコードの顔を思い出して、正信が苦笑する。その周りを、ハーモニーがクルクルと飛び交う。
「仕方ないよね、何やったとしても、Drクエーサーは優秀な科学者で、アトランダムにはなくてはならない人材なんだからさぁ」
【A-h】HARMONY。
正信の父・音井信之介教授が開発した、史上初の人間型ロボットである。反重力システムを採用しているので、正信の周りをお手軽に回ってみせて、エモーションの映し出された画面を映し出す。
「カシオペア博士は何か言ってたぁ?」
「いいえ。ただ、『あの子は仕事したいのよ』とだけ」
「ふぅん。でも、それ以外言いようないよね、博士ならさ」
設定年齢は13歳だが、起動してからの年数はコードとほぼ同じだから、智恵も回れば、精神年齢は相当高かったりするのだが。
「正信、仕方ないよ」
「わかってる。ハーモニーに言われなくとも」
正信の返事に、気を悪くしたのか、ハーモニーは軽く正信の前髪を引っ張った。
「ちょ、痛いよ。ハーモニーってば」
「ボクをないがしろにした罪だよ」
「分かったから、離して……」
正信の言葉に、ハーモニーは素直に手を離した。
「わかればよろしい」
「……ハーモニーのバカ」
「何か言った?」
正信の小言に反応する、ハーモニーを無視して、正信が続けた。
「えっと、みのるさんって言ったけ? カシオペア博士の養女」
「ええ」
「退院したんじゃないの?」
「ええ、今日退院ですわ。そろそろ帰ってくる頃じゃないかしら」