空の彼方で雷鳴 05
「正信、おめでとう」
「ありがとう、父さん」
たったそれだけ。
父子の会話としては、短すぎるようなそんな感すら否めないが、音井父子にとっては普段の会話だ。
たとえ教授の『おめでとう』の対象が、正信の成績優秀さを褒めたことであっても。
『信兄ちゃんのこどもだからね、正信は。成績よくって当然よね♪』
そうは言うものの、いつでも笑顔で褒めてくれた母は……いない。
正信と、教授をつなぐ『母親』の姿が消えたことが、これほど二人の意志の疎通まで悪くなるとは。
思っていなかった。
突然の出来事……。
そのまま研究室に引き上げようとした教授は思いだしたように告げた。
「そうだ、正信」
「?」
「カシオペア博士が一度、遊びにおいでと言っていたな」
「あー、分かった」
「あそこも家族が増えたからな。賑やかになっているだろうな。特にエモーションが」
「そうだね」
確かに、賑やかにはなっているようだ。
今日も今日とて、賑やかなエモーションの声が響く。
「酷いですわぁ、みのるさんたらぁ。あんなこと言うなんてぇ」
賑やかは賑やかなのだが、違う意味で賑やかななのだ。
半べそ状態で、エモーションが訴える。
「正信ちゃん、聞いて下さいな」
「……はいはい」
「みのるさんたら、私のこと、世間知らずって言いますのよ。確かに私、電脳空間にいるだけだから、現実空間には行けませんのよ、でもそんなに世間知らずかしらー」
「……どうかな」
プロジェクターの認識範囲限界まで、正信に接近して、エモーションは続ける。
みのるがカシオペア家に来て、2週間。
病院にリハビリに通いながらだが、みのるは確実にカシオペア家の生活に慣れてきた。仕事の忙しい博士の代わりに、必然的にエモーションがみのるの世話をしているのだが、どうやら意見の相違が数々見えるようだ。
「……ですのよ」
「そうなんだ」
半ば右耳から左耳に通り抜けていく言葉の洪水に、とりあえず正信は頷いてみせる。
「そのくらいにしておけ。正信が迷惑がっているぞ」
コードの出現に、正信は本気で安堵の溜息をついた。
いつもはゆったりとマイペースで話をするエモーションだが、時としてこんな感じで相手が聞いているかどうかも関係なくまくしたてることがある。実はカシオペア博士は知らないエモーションの一面で、正信とコードだけが『被害』に遭っているが。
「ひどいですわ、お兄さま」
「精神的に不安定な時期だと、博士も言っていただろうが。エレクトラが矢面に立つことも、承知の上だろう。仕方がない、しばらくつきあえ」
「お兄さま」
「正信につきあってもらうか?」
突然、自分に話が回ってきて、安堵していた正信がきょとんとした表情を浮かべた。
「はい?」
「カシオペア博士が、遊びに来いと誘っているのだろう? この前、音井教授と話しているのを聞いた。一度、来い。年齢では、みのるの方が一つ年上だが、そうは見えないな」
それはみのるが可愛いのか、あるいは正信が年齢以上に大人びた表情を浮かべる為か。
「とにかく、一度遊びに来い。博士も心配している。家庭料理を振る舞ってくれるぞ。しばらくありついていないだろうが」
一度は丁重にお断りした、『お誘い』だったが。カシオペア博士が二度三度と電話をくれることに、音井教授が口火を切った。
「正信……カシオペア博士が心配しているようだから、明日、お家にお邪魔しなさい。お誘いを受けたが、儂は仕事があるから……」
「つまり、父さんの代わりにボクが行くの?」
「そうともいうな」
ようやく母がいないことから立ち直り始めた、父だ。あまり父親を悲しませることは、したくなかった。
一時は、研究を止めて日本に帰ろうとしていた音井教授だったが、最近になってようやく、『頭脳集団アトランダム』が総力を挙げて取り組む【A-K】プロジェクトに、少しずつだが参加するようになった。
少しずつ、音井家が昔に戻ろうとしている。
でも、一ヶ所だけがポツンと空いていることは否めない。
『音井詩織』という場所が。
「……じゃ、行って来るよ。父さん」
「うむ。博士によろしくな」
「お客さま?」
「ええ。音井教授の、お子さんよ。そうね、年齢はあなたより一つ下かしら」
「年下……」
「音井、正信くんて言うの」
音井正信。
カシオペア博士の言うその少年の名前に、みのるは聞き覚えがあった。
『まあ、正信ちゃんよりもお一つ上なんですね』
みのるの年齢を聞いて、エモーションが言った言葉だ。
カシオペア博士とエモーションの会話だったが、その名前を別に意識していたわけではなかったが、何となく覚えていた。
そっか、エモーションとも知り合いなんだ。
カシオペア邸に来て、数日。
ようやくなんとなくではあるものの、間取りを理解出来て、エモーションとも仲良くとはいかないが、コミュニケーションを取りながらの数日間だった。
みのるがカシオペア邸に来てから、始めてのお客である。
「エモーション、何か作ろうと思うのだけれど、材料は何があるかしら?」
博士の声に、近くのテレビ画面が起動する。エモーションが顔だけだが顔を出した。
「そうですわね、今のものでしたら……キッシュなんか如何でしょうか? 材料はありますし、そうそうマンゴープリンも出来ますわね」
「そうね、それがいいでしょう。みのる、手伝ってくれる?」
「はい」
数週間前までは、博士は日常的にキッチンに向かっていた。
確かに頭脳集団の総帥という忙しい地位にはあったけれど、誰の手に預けずに、息子を育て上げたのだ。料理はお手のものだった。いつもと同じようにキッチンに入れば、手慣れた様子で料理を作り始めた。
作る者は、変わらない。
変わったのは、食する者だ。
それを出来るだけ考えないようにしながら、キッチンの入口に立っているみのるに声をかけた。
「いらっしゃい。そうね、オーブンを暖めてくれる? 火の温度は適当でいいから」
思えば、この家に来てからみのるがキッチンに入ったことなどないのだ。今まで『お客』として扱ってきたようなものだから。オーブンの場所から教えてあげなくていけない。博士はみのるにオーブンの設置場所を指差した。
「あそこよ」
「はい」
少し気乗りしない様子だったみのるだったが、オーブンの扉を開いた。
そして、スイッチを入れる。
何事もなく、オーブンの奥に小さく一列の青い炎が灯った。
ただそれだけ。
青く、小さな炎。
みのるの目には、そうは映らなかった。
紅き、炎。
命を、消し去る劫火。
すべてを、みのるのすべてを奪い去る、いきもの。
アレハ、ナニ?
炎の中に、見えるのは。
父の姿が、自分を抱える母の姿が、黒く、変わっていく。
ナニ? ナニガオキタノ?
コワイ。コワイノ。
ダレカ、タスケテ!
だれか!
「いやあぁぁぁぁぁぁ!」
博士は突然響いた声に、手にしていたボウルを乱暴に放り出し、振り返った。キッチンの中央にある来客用TV画面に、エモーションが姿を見せる。
「おばあさま、なんですの?」
「エモーション、病院に緊急連絡を!」
エモーションが見たものは。
博士の手の中で、ぐったりと意識を失い横たわるみのるの姿だった。