空の彼方で雷鳴 06
「ごめんなさいね、あなたに連絡を忘れるなんて」
「いいえ、いいんですけど……」
「大丈夫なの? みのるちゃんは?」
気に掛かっていることを、ハーモニーが口にする。
憔悴した表情の、博士は消え入りそうな笑顔で応えた。
「それがね、身体は何ともないの。お医者さんに来ていただいたけれど、異状はないって言われたのよ。あるとしたら……」
「心の方、かな」
「ええ、そうね」
ハーモニーの問いかけに、博士の答えは早かった。
博士のお誘いに、感謝の気持ちを込めて花束を抱えてハーモニーとカシオペア邸にお邪魔した正信だったが、みのるが倒れたことを知らなかったのだ。
みのるの件でどたばたしていたせいもあって、博士も正信に連絡を入れることを忘れていたので、玄関先での先程の会話となる。
「……今は」
「落ち着いているわ……そうね、あなたさえよければ会っていってくれない?」
「え、僕はいいんですけど……」
「私やエモーションだけでは寂しいでしょう? 出来ればあなたに話し相手になってもらおうと思って、今日は来て貰ったの。あなたさえ、よければ時折でいいわ、来てくれないかしら?」
「もっちろん、いいよ♪」
応えたのはハーモニーである。しかし正信には異論がないから、否定はしない。
「ありがとう。じゃ、どうぞ」
「はじめまして。音井正信です」
「……児玉みのるです」
笑顔で差し出された握手を、拒む理由をみのるは持っていなかった。大した感情もなく、握り返す。
「ボクね、ハーモニーでっす♪」
突如、正信と名乗った少年の肩から、小さな、そう妖精のように小さな人形が姿を見せ、愛嬌たっぷりに声を上げた。みのるの視線が思わず釘付けになる。
「驚いた? 彼の名前は、【A-h】HARMONY。僕の父さんが作ったんだ。始めての起動した義体を持つ、ロボットなんだ。でもね、僕は小さい頃から一緒に育ったから、親友なんだよ」
「そ、ぼくらは親友ー♪」
透き通った六枚羽を軽く打ち合わせて、ハーモニーは中空をクルリと一回転してみせる。
「よろしくね、みのるちゃん」
「よろしく」
淡い、眸の色。
まるで茶水晶のような、眸に、黒い髪。身長はみのるの方が少し高いだろうか。何より整った顔立ちは、純粋な日本人のようには見えない顔立ちだった。
「……ごめんなさい、せっかく来てもらったのに」
「いいんだ。仕方ないよね。倒れたって聞いて、びっくりした。具合、悪かったの?」
心底、心配するような眸。みのるは思わず相好を崩して、
「ううん、そうじゃないんだけど。オーブンに火をつけていたら気分悪くなって」
「?」
「火?」
正信と、ハーモニーが首を傾げている。みのる自身が分からないのだから、二人が分かるはずもない。
「貧血でも起こしたのかな?」
「さあ?」
ハテナマークが飛び交う空間を、ハーモニーの一言が切った。
「でも、今はいいんでしょ?」
「うん、今は平気」
「なら大丈夫さ♪」
「……やはり、そうですか」
『ええ。博士の仰ったことは、すべてそれを示しています』
正信とハーモニーがみのると話している間、博士は研究室からみのるが入院していた病院の精神カウンセラーと電話で話をしていた。
みのるが倒れた原因。
身体に異状が見られないと言うことは、精神的な要因が考えられる。
みのるは言った。
オーブンの火を見ていると、気分が悪くなったと。
本来のカシオペア博士の専門分野は、心理学である。精神治療の分野に携わったことはなかったものの、精神カウンセラーが口にした症名を知っていた。
PTSD、post traumatic stress disorder。心的外傷後ストレス障害。極度の心的外傷を受けた場合、そののちに渡って精神障害、例えば幻覚、錯覚、精神不安定、情緒不安定が見られることがある、最近判明した精神的障害の一つである。
その可能性は大きかった。
みのるが受けた衝撃と恐怖。その度合いは、想像だに及ばないものだろうし、みのる自身も認識していない以上にその恐怖に身を染めていたら、PTSDが起きる可能性はある。現に、博士の前で、叫声の中で倒れたではないか。
『どうされますか? もう一度病院に来ていただいて、検査をされますか? こう申し上げたはなんでしょうが、PTSDの完治率は……』
「ええ、知っています。とても低い……もう少し様子を見ます。必要であれば、私がカウンセリングを行います。病院に行くことで不安を増幅させては、尚更容態が悪化するでしょうし」
『そうですね』
カウンセラーは博士が心理学者であったことを、思い出したようだ。
『では、何かありましたらご連絡ください』
「ええ、ありがとう」
「それは大変ですね」
「そういうことなの。すまないけれど、しばらく総帥を代行してくれるかしら? エリオット」
「……今のところ、緊急を要する懸案は届いて来ないし、【ORACLE】プロジェクトも問題なく進んでいますからね。いいでしょう」
普段と変わらぬ表情で、エリオット・クェーサーは姉の申し出を軽く受けた。それがいつもの彼の態度だと分かっているから、カシオペア博士はそれ以上は言わない。
「よろしくね」
これが姉弟の会話だ。もう、何年も。
何が二人の間に壁を生んだのだろうか。超えられない、壁を。カシオペア博士には分からないのだ。
必要最小限の会話しか、もう何年も交わしていない、はずだった。
「元気に、なればいいですね」
まるで捨て台詞のような言葉の意味を、姉が理解するのに、しばらくかかったのは、仕方ないことだろうか?
フン、馬鹿馬鹿しい。
いつもだったら、そう笑い飛ばしているのに、どうして出来ないのだろうか?
いらいらした様子で歩を進めるクェーサー博士の近くには、誰も寄りつかない。非難とまではいかないまでも、複雑な視線がここかしこから向けられている。
『事故』を起こした張本人。
しかし、『総帥の弟』であるがために責任を逃れた、研究者。
Dr.クエーサーには一生そのレッテルがつきまとうだろう。そして彼自身もそれは分かっていた。
そんな俗世のことをすべて投げ捨ててでも、自らのことなど放り捨ててもやるべきことがあるというのに、この苛立ちはなんだ?
児玉、みのるという少女のせいか?
それとも、みのるが罹ったPTSDのせいか?
『あなたには、PTSDの発症が見られます』
いつか受けた精神テスト。思い当たる節があるだけに笑い飛ばせなかった。
炎に対する、PTSD。
いつか見た、炎。
ああ、あれはメグと見た……炎の、せいだ。
「……病気、なんですか?」
「いいえ、病気じゃないわ。そうね……あえて言うなら、心の傷かしら」
カシオペア博士は、みのる自身にPTSDであることを隠していた。否、隠していたというよりは伝えなかった。だが、生活する上で、全くPTSDの原因である炎を見ないというわけにはいかない。家の中ではエモーションに注意を促して、見せないようには出来るけれども、その注意は隣家や近所までは届かない。
最初の時のように倒れることはなくなったものの、炎を見ると身体が強ばり、呼吸を忘れる。実際、カシオペア博士に背中を叩いてもらって、初めて呼吸が再開したこともある。そんなことが2度3度と続いて、みのるは自分から聞いたのだ。
これは自分のどこが悪いのか、と。
「心の、傷……」
「心が、炎を見たくないって、身体に拒否させているの。だから身体が動かなくなるのよ」
「……」
「でもね、大丈夫。良くなるわ。必ずね」