空の彼方で雷鳴 07






「ひどいですわぁ」
エモーションがコードに泣きつく。
コードが大きく溜息をついて、
「またか」
「またですのぉ」
おいおいと泣くエモーションの背中を、軽く叩いて、コードがぼやく。
「まったく、不安定もここまで来ると他人迷惑だな」
「そんなこと、仰らないでくださいまし。みのるさんは、不安なんですから」
「だからといって、お前までがかき乱されては、つき合うにもつき合いきれんぞ?」
泣きつかれる俺様の身にも、なってくれ。
喉まで出た言葉を飲み込んで、コードはもう一度溜息をつく。
「エレクトラ。少しは言い返してもいいんだぞ?」
「でもでもでも……」
「子供は教育するものだろうが。お前が教育されてどうする」
カシオペア博士によるみのるのカウンセリングは続いていた。みのるの状態を博士から聞いていたコードとエモーションだったが、エモーションとみのるの関係は一進一退のようである。なまじ普段から接するだけに、エモーションを『人』として捉えるか、『ロボット』として捉えるか。
みのるのモラル・モラトリアムなのだと、博士は言っていた。
人とロボットの境界線。
人は『価値があり』、ロボットは『生命に価値がなく、人に仕えるもの』。
いったい、誰がそんな境界線を作り出したのかコードの理解を超えているが、みのるのように普段からロボットに接する機会が少なかった人間には、モラトリアム、猶予期間が生まれる。
その先は分からない。
今までと変わらず、ロボットを卑しめるか。
ロボットを対等に考えるか。
みのるの精神状態は、不安定なのだ。
コードはエモーションの頭を軽く撫でて、
「とにかく、みのるの早い成長を祈ることしか、俺様には出来んな。エレクトラには、悪いがな」
「ひどいですわぁ、お兄さま!」
泣きつくエモーションを、溜息一つで見つめながら、コードは思う。
そろそろエモーションの気持ちを代弁してやらねば。





みのるの『エモーションとコード』に対する気持ちは、決して猶予期間だけで説明出来るものではない。
カシオペア博士も分かっている。新たな人間関係形成における希薄な積極性。それもPTSDの一症状なのだ。ここのところみのるにかかりっきりの博士は、みのるの状態を記した日記を毎日つけている。最近の様子をざっと見直すけれども、良くもなく、悪くもなくといった感じだ。
ヴン。
近くのディスプレイが軽い起動音とともに動き始める。いつもそのディスプレイから姿を見せるのはエモーションだから、博士はディスプレイを見遣りもせずに、声を上げた。
「どうしたの、エモーション」
『博士』
思いもしなかった声に振り返る。秘色の袖を軽く振ってから、ディスプレイの向こうでコードが苦笑する。
『エレクトラと思われたか』
「まあコード。あなただったの? ごめんなさいね」
『構わない。しかし、博士らしくないな』
私らしくない。博士はコードの一言が胸にストンと落ちたような気がした。気持ちを切り替えて、声を上げる。
「どうかして? エモーションに泣きつかれた?」
『それもある。少しエレクトラの感情が不安定になってきている。みのるに、これ以上八つ当たりを止めるように言ってもらえないかと、思ってな。博士が言わないのなら、俺様が言う』
「……ええ、そうね」
コードの強い口調にかき消された博士の声に、コードは小さく溜息をついて、博士の顔を覗き込む。
『博士が止めろと言うなら、止めるが』
「言って欲しいの? コード」
『……考えあぐねているのが、現状だな。だが、今のままでは何も解決しないような気がする。俺様は待つことには自信があるが、その結果として妹が哀しい思いをするのは、もっと嫌なのでな』





晴れ渡った、青空。
いつものシンガポールの空だ。
つばの広い麦わら帽子に薄手のワンピース。伸びかけた黒髪を緩く結ぶ青いリボン。いずれも義母と義姉が選んでくれたものだ。みのるも自分に似合っていると感じている。
だが、麦藁帽子だけは、なんだかいやだった。そんな素振りを理解して義母は優しく諭した。
『みのるには少しだけ、日差しがきついかもしれないわね。だから、万が一のためにも、そう、日射病や熱射病にならない為にも、外にいる時は帽子をかぶっていてね』
好きではないが、義母の言葉は分かったような気がした。
PTSD発症から数ヶ月。
完治することはない病気でも、小康状態にはなる。
はっきりとした異常があらまし見えなくなって、義母は『気分転換』にと、みのるを【頭脳集団】アトランダム本部へと、送り出したのだ。
『大丈夫よ。これを届けてもらいたいだけだから』
『なに?』
『これはね、メンタル・プログラムといって、HFRの性格を位置づけるものなの。これを、音井くんに届けてほしいの。そうよ、あの正信くんのお父さん』





「はい、先ほど正信とハーモニーを行かせました。分からなくなったら、迷子センターもできたことですし、すぐに検索できますよ」
『そうね。ごめんなさいね、あなたへの用事をごまかしたようで』
受話器の向こうで、押し殺したため息が聞こえる。そのため息の深さが『総帥』ではなく、マーガレット・クェーサー・カシオペアの悩みの深さを示しているようで、音井信之介は思わず声を上げた。
「大丈夫ですよ、博士。彼女は」
何の根拠もない、励まし。だが、信之介は自分で口にしたその言葉に対しての、表現しがたい自信をまるで内奥からわき上がってくるように感じたのだった。
「大丈夫です」
『そうね、大丈夫よね、きっと』
カシオペア博士が今日という日をアトランダム本部への外出日としたのには、3つの理由があった。
まず第一に、ただ外出させるだけでなく、『みのるが自分に頼まれたことを成し遂げる』という目的意識を持たせること。
第2に音井研究室に、正信がいること。
そして第3に、本部にエリオット・クェーサーがいないこと。
正信という、同世代の友人がいれば、心的不安も解消される。加えてエリオットがいないということは、外的不安要素が消えるということでもある。
『私が何をするというのです?』
弟ならそう言うだろう。薄い笑みをその口元に浮かべながら、眼鏡越しにまるで侮蔑するように実の姉をみつめながら。
博士は小さく溜息をついた。
いつから、弟は変わってしまったのだろうか?





← Back / Top / Next →