空の彼方で雷鳴 08
世界に名だたる頭脳集団、アトランダム。
創設者はマーガレットとエリオットの両親、クェーサー博士とステイシィ博士である。二人が幼い頃から両親は現在のアトランダム中央研究所のある辺り一帯を買い取り、広大な敷地の中に、意外にもこじんまりとした住居を建てて、そこを研究所兼住居として使用していた。マーガレットもエリオットもそこで成長したのだ。
両親が研究に打ち込む姿を見ながら、二人は成長した。
幼い、エリオット。
物静かな様子は、今も昔も変わらない。
そう、変わったとしたら、あの頃。
あの夜、炎を二人で見ていた……。
「あれ、ドクター・クエーサー? 今日はヨーロッパに出張じゃなかったんですか?」
通り過ぎようとしたクェーサーを研究員が呼び止める。クエーサーは小さく微笑んで、
「早めに切り上げたんだが、何か支障でも?」
「いや、そういうわけでは……」
研究員はそそくさと姿を消した。クエーサーは軽く鼻で笑う。
なんだというのだ、中途半端に声をかけるなんて。
「あれぇ? やっぱりいないよねぇ?」
「……そうだね」
「ボクたちが間違えた、なんてことはないよね?」
「……みのるちゃんが間違えたんだよ。このあたりまで来ると、案内標識はないからさ」
「あ、そっか」
父に乞われるまま、みのるの出迎えに来た正信とハーモニーだったが約束の時間を30分以上過ぎても、みのるの姿が見えないのだから、正信の不機嫌なまでの心配は当然だ。
アトランダムの管理・研究している内容は、場合によってはこれらの内容は転じれば兵器開発にも使用できるものであり、極秘を要する場合もある。シンガポールの中でも観光スポットでもあるアトランダムは一部は公開し、案内標識も充実しているのだが、そんな理由もあって研究棟近辺は案内標識もなく、加えて似たような建物が続く。初めて来たみのるにとっては、間違いなく迷うのだ。
「とりあえず、父さんに連絡するよ」
「そうだねぇ。ボクもちょっと回ってみるよ」
暑い。
北欧から東南アジアに戻ってくると、この暑さはこたえる。いつもきっちり着込んでいる制服の襟を崩す。
クエーサーは溜息をついて、エアコンのスイッチを見る。入っているのに、温度が下がらない。舌打ちをして、内線の受話器を取った。
『はい』
「クェーサー博士だが、空調の様子がおかしい。すぐに見てくれないか?」
『はい、すぐにチェックします』
受話器を置いた時、微かな音がした。
窓から空を見上げて、クエーサーは小さく息を吐いた。
「あ、雨だ……」
みのるは雨音に驚いて、慌てて建物の軒下に飛び込んだ。どれも同じ建物、案内標識のない路にみのるは心許ない様子で歩いていた最中だったのだが。
「……困ったなぁ」
東南アジアではお決まりのスコールである。いつ止むのかは、誰にも分からない。スコールまでには音井研究室に着くはずだったから、当然のことながら、傘は持っていない。
みのるはしばらく雨の様子を見ていたが、くるりと振り返った。
「そうだ♪ ここで誰かに傘を借りるとか、正信くんところに電話かけたり、連れてってもらえばいいんだ♪」
「……以上ですが、何か不足の説明がありましたか?」
『いいえ、結構よ。相変わらず完璧な報告書だったわ。
でも、わざわざ送って来なくてもよかったのに。シンガポールに帰ってきてからでも』
「姉さん、僕は自分のラボから電話してますよ? エモーションが仰っていたのでは?」
『おばあさま、本部のドクター・クェーサーからお電話ですわ』
確かにエモーションはそう言ったのに。
一瞬の沈黙に続いて、重苦しい姉の声が響いた。
『ごめんなさいね。少し疲れているのかしら?』
「それはそうと、そろそろ復帰していただきたいのですが。【A-K】プロジェクトも本格始動を始めますから。アークの肢体もほとんど完成したそうですから」
『そうよね。音井くんが復帰したおかげで、ずいぶん【A-K】プロジェクトが進んだものね……分かりました。近いうちに復帰するわ。ただし、全権はあなたに』
「……そのことですが、自分は研究を続けたいので、今までどおりの総帥代理で結構ですよ。経営上の問題は手に余ります。余計なことに首を突っ込みたくないんですよ。ういうことですから、総帥は姉さんにお譲りしますよ」
『……分かったわ』
アナログな受話器を置いたあと、クェーサーはしばし考え込んだ。
冷静沈着なあの姉が、なんだか取り乱したように聞こえたのは、気のせいだろうか?
……まあ、自分には関係ないことなのだが。
そのとき、クェーサーは何かの音を廊下で聞いたような気がした。
チン。
受話器を置くなり、博士は声を上げた。
「エモーション!」
電話の最中は一切出てこないエモーションも、母の剣幕に驚いて、モニターに顔を見せた。
「はい、おばあさま?」
「すぐに、音井くんのラボに行って頂戴! エリオットが、弟が研究所にいるの!」
「……はい、そのようですわね」
いまいち要領を得ないエモーションの隣に、コードまでもが顔を出す。
「どうされた、博士?」
「エリオットがラボに帰っているのよ。みのるともし会ったら、どうなるのかしら!」
「あ」
完治しない、PTSD。
事故を引き起こしたクェーサーとの邂逅が、みのるにどういう影響を与えるのか、誰にも分からない。
「まぁぁぁぁ、どうしましょ!」
「博士、とにかく音井ラボに飛ぶ。エモーションはここに残れ。
いいな!」
気合一閃、コードの姿は瞬く間、掻き消える。
残されたのは、博士とエモーション。
「……何もなければいいのだけれど」
つぶやいたのは、どちらだったのだろうか?
静まり返った廊下に、みのるの足音と、全身から滴り落ちる雨雫の音が響く。
建物の入り口に受付があったが、しばらく待っても誰も出てこないので、とことこと入り込んでしまったみのるである。
軽い気持ちで、誰かに会って、音井のおじさんの名前を出せばいいと思っていたのに、誰も現れないのでは、心細さも募るというもの。
「……誰か、いませんかぁ?」
声も、小さくなる一方だ。
廊下の突き当りまで来て、みのるはしばらく考え込んだ。
もう一度呼んで誰も来ないなら、雨に濡れても違うところに行った方がいいかも。
「すみませぇん、誰かいませんかぁ?」
思いもせず。
「……何か用事か?」
近くの扉を開けて現れたのは、壮年の男性。
待ち望んでいた反応だったのに、まさか人が今になって現れるとは思わなかったみのるは、思わず言葉を捜した。
「えっと……」
「何か用事かい?」
優しげではない、どちらかといえばぶっきらぼうにやってきた問いかけに、みのるは口ごもりながら答えた。
「あの、音井研究室に行きたいんですけど、雨が降ってきて……」
「スコールだからな」
「傘をかしてもらえませんか? えっと、電話でもいいんですけど」
「電話? ああ、音井ラボにかけるのか。とにかくそのなりをなんとかしなくてはいけないだろうな?」
男性がマジマジとみのるの姿を見つめた。
雨のせいで、ずぶ濡れなのだから、仕方ない。
「えっと……」
「とにかく、入りなさい。電話はその後でもできるだろう。誰かが迎えに来てくれるだろうな」
「……すみません」