空の彼方で雷鳴 09
「来ていないか……」
「正信から電話があって、待ち合わせ場所にいなかったから、迷子センターに問い合わせていた最中なんだ」
プロジェクターから突如現れたコードを、音井教授は嫌な顔ひとつせずに、どちらかといえば切羽詰った表情で迎え入れた。
「迷子だと分かってきたんじゃないだろう?」
「博士に、クェーサーから電話があった。ラボに帰ってきているそうだ。博士は二人があって、みのるの症状が悪化することを怖れている」
「なるほど……」
普段は温和な表情の信之助だったが、今度ばかりは強張った表情を隠せない。
「仕方ない。
ここで待つしかないか……」
大きくため息をついて、コードはプロジェクターの中でどっかりと座り込み、胡座をかいた。
これが電脳空間だったら、コードに行けない場所はない。
だが、みのるが存在するのは、現実世界。決してコードやエモーションが出ていけない場所なのだ。
……正信。ハーモニー。
あいつらに、任せるしかないか……。
「いたぁ?」
「いない。迷子センターから連絡入らないと、わかんないよね」
ハーモニーと正信は研究棟内を走り回っていた。ハーモニーは『雨に濡れたら錆びる』といいながらも、少し上空から探している。
「雨さえ止めばいいんだけどねぇ」
「うん」
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
先に差し出されたタオルを首にかけて、みのるは男性が持ってきたマグカップを受け取った。
「アイスココアだ。まずくはないはずだが」
「はぁ……」
一口啜って、みのるは思った。
ホント、まずくはないって感じ……。
「タオルは一枚でいいか?」
ぶっきらぼうな言い方だが、言っている内容は気配りの効いた言葉だ。
「はい……いいです」
「電話はそこにあるから、好きに使っていい。音井ラボの番号はメモしてある。ゆっくり飲んでからすればいい。私は手の放せない実験があるから、隣の部屋にいる」
「……ありがとうございます」
トルルル。呼び出し音は一回鳴っただけで、役目を果たした。
『はい!』
「父さん、迷子センターから連絡は?」
正信の声に、信之介の深いため息が応える。正信も軽くため息をついて、
「こっちも全然ダメ。もう一回調べて……」
その時、二人の電話に割り込む音が聞こえた。おそらく信之介のもう一台の電話だろう。慌てて信之介が出ている。遠くで応対の声が聞こえている。
次の瞬間、静まり返った受話器の向こうの空気に、正信は眉をひそめる。その様子にハーモニーが反応した。
「? なに?」
「……なんか、ありそうな気が……」
『正信!』
正信の言葉も終わらぬ内に、父親の怒号に近い声が耳をつんざく。耳を塞いで小さくなってしまったハーモニーを横目で見ながら、正信は落ち着いて聞き返した。
「なにか、あったの? 父さん」
『何かもなんも! みのるさんは!』
続いた言葉は。
正信を沈黙させるのに、十分だった。
深遠な闇の中。
そこは、人には入らずの世界。
一度は音井研究室のプロジェクターに姿を見せていたコードだったが、自分で探索することにしたのだ。もっとも、アトランダムのセキュリティシステムにハッキングして、自分で操作できるようにする、というなんとも大雑把な計画だったのだが。
案の定、例えサイバーネット達人のコードをもってしても、セキュリティシステムにハッキングするのは難しかった。
「……やはり、強化したな」
以前、遊び半分にハッキングしたのがいけなかったか。舌打ちしてみたコードだが、エモーションがいたらなんというだろう?
まぁぁぁぁぁ、お兄さまたら! そんなことを? わたくしも、なんで呼んでくださらなかったのです!
悔しがる姿が浮かぶようだ。
小さく溜息をついて、エモーションの姿を脳裏から消したその瞬間。
微かに響くコール音。
これは、迷子センターからの返答か。
コードはもう一つ溜息を残して、音井研究室に向かう。
『いかがした、音井博士』
突如コンピュータの画面に姿を見せたコードを一瞥して、信之介は矢継ぎ早に応えた。
「迷子センターから連絡が入った。みのるくんの姿を確認したそうだ。スコールが来たので雨宿りしているようだが、最後に確認された場所がクェーサー・ラボの玄関先らしい。次にカメラが同じ所を写した時には、姿が見えなかった。ラボの中に入っていた可能性が高いんだ!」
『なるほど』
「落ち着いている場合か! コード、ラボにはドクター・クェーサーがいるんじゃぞ!」
『……俺様にできることは、ないだろう? クェーサー・ラボのプロジェクターは撤去されている。行けるとするなら、ハッキングになるが、音井博士はそれを黙認できるか?』
苦虫をかみつぶしたような、コードの声に信之介は眉を顰めた。言葉の内容よりも、その言葉を放ったコードの心内の嵐に気がついて。
「……これから、電話をかけてみる。行っていないかもしれないけれども。正信には玄関付近を捜してもらうようにした」
ドクタークェーサーのラボの電話番号を確認して、信之介が受話器をとろうとしたその瞬間。
その電話が軽やかに鳴り始めた。
「はい!」
『はい!』
呼び出し音が一回も鳴らずに、人の声がしたことでみのるは思わず言葉に詰まった。
『もしもし!』
急ぐような声に、みのるは怖ず怖ずと声を上げた。
「あのー、音井研究室、でしょうか?」
次の瞬間、沈黙に続いて、急いでいた男の声がみるみるうちに落ち着きを取り戻す。
『はい、そうですが、どなたですか?』
「え、あの、みのるです。児玉みのるです、今日お伺いする予定の」
『みのるくん!』
せっかく落ち着いていた声が、走りはじめる。
『どこにいるんだい? 正信が会えないって、電話してきたけど? あ、雨に降られて困っているんじゃないかい?』
「……えっと、雨に降られて困ってたんですけど、親切な方にタオルと、ココアと、あ、その方にお電話も貸してもらってるんです」
大きな溜息が受話器の向こうから聞こえる。
『無事のようだな』
『よかった……』
『場所を聞いて、正信に迎えに行かせた方がいいのではないか?』
受話器の向こうの会話に、兄がいることに気づいたみのるが声を上げた。
「あの、コード兄さんもいるんですか?」
『ああ、いるよ……偶然こっちにプログラム・チェックで来ててね』
明らかな嘘。だが、信之介は瞬間、ドクター・クェーサーの名前を出してはいけないと、考えた。ドクターと接触することを、ドクター・カシオペアが恐れているなら、尚更のことだ。だが、みのるにはその嘘が分からない。
「そう、ですか」
『ところで、みのるくん。今、どこにいるのかな? 正信が迎えに行くから、場所を教えてくれたら、嬉しいんだけど』
「えっと、私も迷って入り込んで来ちゃったので……あ」
その時、隣の部屋に続くドアが開いて、男性が姿を見せた。みのるは声を上げる。
「あの、すみません。ここって、何て言う建物ですか? 迎えに来てくれるって言ってるんですけど」
「……ここはドクター・クェーサーの研究室だ」
「……え?」
『みのるくん?』
自分の名前を呼ぶ声が遠くなる。右手でしっかりと握っていたはずの受話器がいつの間にか滑り落ちて、プラスチックタイルの上に落ちた。
ドクター・クェーサー?
事故の、原因を造った、人。
おかあさん。
おとうさん。
シンダノハ、ドクター・クェーサーノ、セイ。
ナンデ。
ワカラナイ。
マワル、ヨ。
アタマガ、イタイヨ。
声も立てず、みのるはその場に卒倒した。頭を打たなかったのは、不幸中の幸いだろう、なぜなら俊敏に動いた男性が身体を支えたからだ。
床に落ちた受話器から、ひっきりなしに呼びかけの声がする。左手でみのるを支えて男性は受話器を拾い上げた。
「……ドクター・オトイ」
声が止んだ。数瞬の沈黙に続いて、信之介が言葉を紡ぐ。
『ドクター・クェーサーですか? みのるくんは?』
「……この子が、みのる? カシオペア博士が引き取ったという?」
『そうですよ。みのるくんはどうしたんですか?』
半ば苛立ちながら、信之介は見えないクェーサーに詰め寄る。
「失神したよ。ここの場所を説明するなり、ね」
『なんですって!』
「医者を呼んだ方がいいのかな? 突然卒倒して、こちらが驚いたよ」
『……すぐに正信が向かいます』