空の彼方で雷鳴 10






さっきまでみのるが座っていたソファに、そっとみのるを横たえる。何か羽織るものを、とも思ったが何もないのでそのままにして、エリオットは手近にあった椅子を引き寄せた。
「PTSDによる意識障害……か」
みのるがPTSDであることは、姉から聞いて知っていた。みのるの失神はPTSDが原因であることも、エリオットは理解していた。だが、自分の名前すらも意識障害を引き起こす要因であることは、考えていなかった。
「……『事故』に関わっていたから、のようだな」
なんてことしたの、エリオット!
ああ、これですべておしまいだ……。
逃げなさい、ここも長くは保たないから!
深淵の彼方に、置いてきた忌まわしい記憶が、甦る。
軽い頭痛を覚えて、エリオットはこめかみを押さえた。





揺らめく、色の重なり。
クェーサー家を包む、焔の動き。
ナゼ、ダレガ、ドウシテ、コンナコトヲ、シタノ?





「正信ぅー、待ってよ!」
「ハーモニーはいいから、あとでおいでよ! ボクは先に行くから!」
振り向きもせずに駆けていく正信の背中を見て、数瞬止まったハーモニーは今までより数倍早く羽を動かして、正信を追い越す。





みのるが横たわるソファが見える場所、窓際に自分の椅子を持ってきて、何気なく空を見ていたエリオットだったが、高く響く足音に顔をドアに向けた、その瞬間。
もともとロックもかかってなかったから、特に感情もわかずノックもせずにドアを開けた少年に、
「……早かったな」
「ドクター! みのる、さんは」
「具合が悪いようだね、そこで眠っているよ」
エリオットの視線でみのるの姿を確認して、正信は駆け寄る。少し顔色は悪いが、脈も安定している。
少しホッとしていると、ハーモニーの声が聞こえた。
「ドクター、みのるさんに何言ったの?」
「……なにも。私はなにも言っていない。ただここが私のラボだと言っただけだ。それに何か問題があったのかな? ハーモニー」
「ホントに?」
「嘘をついて、私に何の得があると?」
「そうだけど」
ハーモニーの困惑した表情とは一転して、正信の強い視線はエリオットには眩しすぎる。
正信の視線を、しかしまっすぐに受け止めて、エリオットは平常心を保ちながら、
「何か言いたいことが、あるようだね」
「……あります。ありますけど、僕が言うことじゃない。それは、みのるさんが言うべきことだから」
「ホウ」
面白いことを言う。エリオットは正信を見つめた。幼い顔。なのに、そこに宿る意志の強さは、賢者のそれのようだ。エリオットは問う。
「では、聞こう。君がみのる嬢の代弁をしてくれたまえ。みのる嬢は、私に何を言いたいのか?」
「正信」
ハーモニーの制止も、怒りが感情を支配している正信には聞こえない。
「みのるさんの言いたいことは、僕の言いたいことと同じだと思います。なんで、あんな事故を起こしたんですか」
なんで、事故を起こしたのか。
なぜ、母さんが死ななきゃいけなかったのか。
なぜ、みのるさんは両親を喪わなくてはいけなかったのか。
一度放たれた嚆矢は、戻らない。
正信の代わりに、自らの口を押さえたのはハーモニーだった。
涼しげな変わらない表情で正信の厳しい言葉を受け止めた、エリオットだった。
一気にまくしたてて、肩で荒い息をしている正信を見つめて、一言呟いた。
「言って満足、したかい?」





雨は、上がった。
さきほどまで叩きつけるように降っていたスコールが、嘘のように音を、そして姿を消し、空にはエメラルドグリーンが広がり、雲一つない。
熱帯性の植物の葉に微かに残った雨露が、スコールの痕跡をとどめているだけだ。
沈黙のまま、進む少年。
その横を、軽やかに飛ぶ、人間形態ロボット。
壮年の男性の背中には、眠ったように見える少女が背負われている。
「ねぇ、博士」
「ん?」
「みのるは、大丈夫なんだよね?」
さっき、何度も確認した。
意識を失ったと、クェーサー博士から聞いたものの、脈拍に異常はない。瞳孔も調べたが、分かる限りでは異常はなかった。呼吸もしっかりしている。
「……多分だが、眠っているだけだろう。今は、だがな」
「そう」
ハーモニーは、まだ下を向いて歩いている正信の、頭上を軽やかに回ってみせて、
「だって、正信。もういいじゃん。みのるは、別にクェーサーになんかされたわけじゃないんだから」
「……そういう問題かい」
信之介の言葉は、当然ながらハーモニーには通じない。
まるでピーターパンのティンカーベルさながらに、軽やかに空中で踊ってみせて、ハーモニーはにこやかに正信の頭上に乗る。
「正信って」
「うるさい」
静かな、しかし断固とした否定の言葉に、ハーモニーは肩を竦めて、
「怖いよー、正信」
「……]





「……失神した、だけだと?」
「医者を呼ぼうと思ったんだが、カシオペア博士がこちらに急行しているし、連絡したら、自分が診るから、おそらくは大丈夫だと」
信之介の言葉に、コードは不精不精に頷いた。だが、納得はしていない。
とはいえ、コードには見守ることしかできない。
眠り続ける、妹の姿を、見守りつづけることしか。
「……」
自分を落ち着かせようと、一つため息をついて、コードは気づいた。
音井研究室に広がった、複雑な、重い雰囲気に。
「……なにかあったか?」
「いや、私が行った時は何もなかったが……」
信之介が窓際に座った、正信の背中を見遣ってつぶやくように言った。
おそらく、信之介がかけつけた時には何もなかった。
否、もう終わった後だったのか?
その疑問を、コードは口にする。
「正信」
「……」
「聞こえているだろう? 正信。何があった。クェーサーがお前に何か言ったのか?」
「……」
答えたくないのか、答えるだけのことがなかったのか、どちらにしろ、正信の沈黙が、何かあったように感じられた。コードは大きくため息を吐き出して、標的を変えることにした。
「ハーモニー」
眠るみのるの枕元で、みのるの様子を伺っていたハーモニーが一つ身震いをして、コードが立つプロジェクターまで軽やかに飛んでくる。
「なに?」
「なにがあった? クェーサーに何か言われたのか?」
「……」
意外に、ハーモニーも沈黙する。コードは内心苛立ちながら、質問を変えた。
「正信が、何か言ったんだな。クェーサーに」
「なんじゃと」
今度の問いに反応したのは、信之介だった。コードを見、どう答えようか考えあぐねているハーモニーを見て、それから正信の背中を見た。
「どういう……」
「えっと……」
「クェーサーは相手にしなかった。そういうことか」
ハーモニーはコクリと頷いた。
その答えだけで、コードはすべてが分かったような気がした。普段、感情の起伏がそんなには激しくない、正信だ。だが、おそらく失神しているみのると、いつもの表情のクェーサーを見た瞬間、自分でもコントロール出来ないほど、激昂したのだろう。みのるのPTSDを正信は知っている。
正信の母。
みのるの父、母。
クェーサーが起こした事故が、すべての原因だから。
だが、正信の激した言葉を、クェーサーはいつものように、感情に乏しい言葉で受け止めたのだろう。
「……言って満足したかいってさ」
正信が背中を向けたまま、ぽつりと零す。
「それだけだったよ。言いたかったんだよ。でも、どう思っているのか、聞きたかったんだ。なのに、あの人は、それしか言わなかった。僕は聞きたかったんだ。どうして、母さんが死ななきゃいけなかったのか」
「正信」





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