An oath of eternity 2






「いらっしゃいませ」
女性店員が自動ドアの音に反射的に頭を下げ、顔を上げたときには目の前に大輔が立っていた。
女性店員は動じる様子も見せず、いつものように笑みを絶やさないようにしながら、
「お決まりになりましたか」
「はい」
帰って来た言葉の、意外なまでの力強さに女性店員は僅かに瞠目する。
「…では」
「文字が入ったタイプ。あれをお願いします」
「かしこまりました、少々お待ちください…」
女性店員は先日の大輔とはあまりに違う様子に少し戸惑いを感じながら、ガラスケースから大輔が指定したペアの指輪を出しながらふと気づき、声を上げた。
「お客様の指輪のサイズは…」
「僕が17号、彼女は7号です」
これもまたすんなりと切り抜けられてしまった。相手の指輪のサイズが分からず、買うことを諦める客もいるのに。
実は大輔も環菜の指輪のサイズなど知らなかった。というより、指輪のサイズのことなど考えたことなどなかったのだ。そこは気配りの吉岡の出番で、どこで調べてきたのか環菜の指輪のサイズは7号だと、教えてくれた。
うれしかったけれど、大輔は礼を言う前に、
『なんでお前がそんなこと知ってんだよ』
『いや、前に怜ちゃんに指輪の話をしてて…』
ごにょごにょと言い淀む吉岡にボディーブローを放り込んで、大輔は溜息をついて。
そして思った。
『俺って…環菜のこと、知らないこと多いなぁ…』





支払いと包装を済ませて、大輔が一息ついていると女性店員が穏やかに切り出した。
「失礼ですが、お伺いしてもよろしいですか?」
「?」
「お客様は前回、とても迷われていらっしゃいましたよね。でも、今回は即決されました。どうしてですか?」
「………………」
大輔は一瞬考え込み、やがて応えた。
「………なぜかな」
「………………」
「ただ」
「はい」
「俺が決めなくちゃいけないことも、あるんですよね」
「………………」
「それじゃ、応えになってないですよね」
あははと笑う大輔を、女性店員は穏やかにみつめて。
ゆっくりと頭を下げた。
「この度はおめでとうございます」
「あ、ありがとうございます」





同僚が自動ドアの向こうに消えた大輔を見送る女性店員の耳元で囁いた。
「予想、当たったね」
「ん?」
「あの人、彼女連れてこないで、自分で決めたじゃない」
「ああ、そうね」
「…理由、聞いた?」
「うん」
女性店員は妙に晴れ晴れとした表情で、同僚に笑いかけた。
「自分で決めなくちゃいけないことだってあるんだって」
「………………は?」
「希に見る、イイ男だわ。やっぱり」





「環菜、忘れ物はないの?」
「ないわよ。明日、ブーケ作りに行って全部揃うの」
歌子は環菜の応えに、眉を顰めた。
「あんた、大事なもの忘れてない?」
「大事なもの?」
クリーニングから帰って来たばかりのウェディングドレスを広げていた環菜が振り返る。近くの椅子に座りながら、歌子が応えた。
「そうよ、大事なもの」
「………………何よ」
「指輪よ、指輪」
少し前から気になっていたのだ。教会の手配から、招待する友人の宿泊ホテルまでぬかりなく手配する娘が、しかし一番大事なはずの結婚指輪の話を、一度もしないことに。
そしてそれを見かけないことに。
「結婚指輪よ」
「うん」
「うん、じゃなくって。忘れてるでしょ?」
「忘れてないよ」
環菜は穏やかに笑って、
「吉岡くん…ほら、大輔くんのバディの人ね。連絡もらって、あたしを驚かせるつもりで指輪用意してるみたいなの。これ、言わないでね」
歌子は一瞬呆気にとられて、
「結婚式まで4日で、まだそれをあんたに言ってこないわけ?」
「うん」
環菜はウェディングドレスの裳裾をふんわりと広げて、匂いをかぐ。
「………………大丈夫、だね。匂わない」
「あんたね…」
「いいのよ。あたしは待ってるの。大輔くんが言い出すのを」
「………………」
穏やかに告げられては、母親でも返す言葉がなかった。
「…まったくこの夫婦は」
それしか、言えなかった。





無人の駅に降り立てば、潮の香りに包まれた。
見渡せば坂の下に広がる、海。
太陽の光を浴びて、輝いている。
大輔は微笑んだ。
かつて、自分を育てた海。
自分を試した海。
自分を追いつめた海。
海の怖さと、強さと。
仲間を信じる大切さと。
愛するものを見つけた場所。
大輔は帰ってきた。
呉に。





身分証明書を見せると、入り口にいた護衛の者が敬礼する。
「失礼しました!」
「あ、いや…こっちこそ」
思わず。
懐かしくて、保大の前まで来てしまった。
気づけば護衛の者に誰何されていて、仕方なく身分証明を見せた。
第3管区にある羽田特救隊に準ずるレスキュー・エリートとされる機動救難士の肩書きは、保大の前でも通用するのだ。
それを感じて、大輔は背筋が伸びた気分になった。
本当は外側から保大を見て、帰るつもりだった。
環菜が待っているはずだから。
だがこうなっては、入らざるを得ない。
大輔は小さく溜息をついて、保大の門をくぐった。





あの夏。
ここに大輔はいた。
海難救助の最先端に立ちたくて。
自分の資格、ダイブマスターを生かしたくて。
潜水技術課程研修を希望した。





友を、亡くした。
愛する者を、得た。
ここは、始まりの場所、だった。





「よお」
片手を上げるオレンジと紺色の制服に、大輔は数回瞬きして。
にっかりと笑いながらさしのべられた手を握った。
「三島、なんで保大に」
「それは俺の台詞だな。仙崎もこっちに来てたのか?」
笑いかける同期の三島優二の左胸には、『羽田特救隊』の文字が見える。
『平成16年度前期組』の中でもっとも優秀だった三島優二は、ながれから鹿児島航空基地機動救難隊に大輔が転属になった後に、特殊救難隊、略して特救隊に配属されたのだ。
一応敷地に入ってしまった以上、挨拶にと訪れた教官室に向かう廊下の途中で三島に会ったのだ。
「なんだ、三島がこっちに来てるんだったらちゃんと連絡したのにな」
大輔がはにかむように笑いながら、
「俺と環菜、結婚するんだ。水曜日に」
「は?」
急な話に三島は小首を傾げた。
「水曜日って…今日日曜日だよな?」
「ああ」
「……………早く言えよ」
「いや、まあ…」
あははと笑う大輔の隣で、三島は眉を顰めて呟いた。
「私服もほとんど持って来てないのに…」
「?」
「1種で出ちゃあ…お前とカブるしな」
「…おい、三島」
「なんだよ」
「出て、くれるのか?」
「出ちゃいけないのかよ」
三島はブスリとした表情で、
「まったく、何が哀しくてヒヨコ隊から卒業して、最初の派遣が保大の教官助手なんて何が楽しくて…」
特救隊に入隊後、新人隊員は4ヶ月間出動せずに新人研修をくりかえす。それが非常に厳しく、挫折する者もいることは大輔も聞いている。三島は二言三言愚痴をこぼして、
「まあいい。必ず行く。場所はどこだ?」
「え〜と…」
大輔は慌てて携帯を取り出し、メモを見ながら教会の場所と名前を伝えた。三島は持っていたメモ帳に書き付ける。
「わかった。問題のない恰好で行くから心配するな」
「いや、心配はしないけど…いいのか?」
「水曜日の午後は休みなんだ。ちょうどよかった」
三島は苦笑混じりに笑って、夕焼けがにじむ空を見上げた。
「お前も結婚か…」
「三島はしないのか?」
「…………しばらくは特救隊で手一杯だな」
「そっか」
夕焼けの空は、瀬戸内海を微かに紅く染めていく。僅かな波頭が白と銀と紅に彩られ、三島と大輔はそれを見つめて、沈黙した。
どちらの溜息だっただろう。
哀しい、溜息ではなく。
苦笑を含んだ溜息が、静かに響き。
大輔と三島は互いの顔を見合わせて、笑った。
「じゃあな」
「ああ、いい結婚式になるといいな」
別れ際、遠くで三島が叫んだ。
「仙崎!」
振り返った大輔に三島は極上の笑顔で言った。
「おめでとう!」
「………………ありがとう!」





教官室を覗けば、大友教官が迎えてくれた。
大輔が挨拶と結婚の報告をすると、小さく頷いて、
「池澤さんの奥さんから…聞いてる」
大輔がはじかれたように顔をあげると、穏やかな表情で大友は言う。
「お前に言ってなかったな。俺は…昔銚子保安部にいたことがあって…その頃、同じ潜水班に池澤さんもいたんだ、俺の先輩になる…婚約した頃から、奥さんも知ってた」
大輔は一瞬息を止め。
深く長く吐き出してから、言った。
「知らなかった…」
「先週、ちょうど池澤さんの墓参りに行ってきてな…奥さんに会った。そしたら、お前の話が出たんだ」
大友は本当に穏やかに、
「池澤さんは、お前を育てたかったんだな…一人前の潜水士に。それから、いずれは特救隊を目指せるほどに」
「え?」
「奥さんが言ってたぞ。死ぬ前の池澤はよくお前の話をしていたらしい。頑張れば、特救隊だって目指すことができるだろうって。池澤さんの言った通りじゃないか。お前は機救隊まで上がってきた」
「………………」
「池澤さんは見る目があったってことだな」
大友が職員から冷茶を受け取り、大輔に差し出すと大輔は軽く頭を下げて受け取って。
「教官は…強いですね」
「ん?」
「…………去年の夏、池澤さんが亡くなった時…俺はもう潜れないと思いました」





ようやく認めてもらえた。
手の届かない相手だと思っていた、池澤真樹。
見上げた男の、崩れ落ちた身体を揺り起こしても、彼は応えなかった。
バディを喪い。
人命救助を放棄した自分は、もう潜れないと思っていた。
呉に来て、吉岡の、下川隊長のかつてのバディの足掻く姿を見ても、心は冷めていった。
近しい人の死は、大輔を苦しめた。
だが、池澤の死は大輔以外にも波紋を呼んだはずだ。
かつて共に働いた、大友にも。
大友はあの時、大輔を一言励ましただけだった。
それすらも大輔は忘れかけていた。
その一言に、今思えばどれほどの思いが秘められていたのだろう。





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