「なあ、仙崎」
大友は水滴が浮くガラスを持ち上げて、両手で包み込んだ。
「俺は思うんだ。海上保安官になった以上、海で誰かを救う以上、見返りは求めてはいけない。こうしてあげたから、こうあるべきだというものはない…………お前は極端な選択を迫られただけなんだ。仲間を殺されても、助けなくてはいけないという…な」
「…………はい」
「お前がしたことは職場放棄だ。むしろ、あの時罰せられずに呉に教官助手で来たことはよかったんだ」
「………………」
大友の手の中で、氷が澄んだ音を立てて崩れた。
「池澤さんは…………まっすぐな男だったよ。お前のように。池澤さんも、もしかしたらお前と同じ選択をしたかもしれない。あの人は…そういう男だった」
「大友さん」
「池澤さんのことがあって、お前はどん底の状態で保大に来た。それを見た時、俺は思った。これを乗り越えた時…お前は強くなるだろうと」
大友は時折音を立てて薄緑の液体の中で踊る氷を見つめながら続けた。
「過ちは過ちだ。そして池澤さんはもう戻ってこない。池澤さんがどうして死んだか、じゃないんだ。池澤さんはどうすれば死なずにすんだのか。それを俺たちは考えなくちゃいけない。それが、命を救うために自分の命を危険にさらしたとしても、必ず帰ってくると約束する保安官の宿命だからな」
「………………」
「仙崎、俺は強いんじゃない。いや、むしろ弱い。だからこそ…見えることもあるかもしれないな」
小さくなった氷が、含んだ空気を吐き出す音が大輔には聞こえた気がした。
保大を出た時は、既に夕焼けも姿を消し、街灯がまだまとわりつくような湿度の高い暑さの中で立っていた。
大輔は敬礼している警護に一礼して、保大を出た。
一度振り返り、僅かばかりの街灯によって照らされている建物を見上げた。
大友教官の言葉が、大輔の胸のつかえを押し流した気がした。
『なあ、仙崎。俺たち教官は、潜水士になる方法を教えるんじゃない。その話は、去年の夏に来たときに教えただろうが?』
『はい。潜水士にするのではなくて、潜水士としてのスキルと手段を教えているだけだと』
パズルと、同じだ。
それも幾つも答えのある、パズル。
答えに行き着く方法は、いくつもある。
だが、もっとも安全に、最善、最速の方法を、潜水士は考えなくてはいけない。
限られた時間。
限られた方法で。
そのために50日間という苦しい時間を過ごして、潜水士となるのだ。
かつて、潜水研修中に大輔たちに源教官が聞いた。
『深度30b、残圧20、バディのエアは0。お前なら、どうする?』
正解と呼べる答えなど、ないのだ。
きっと。
だが、誰もが生還したとしても、課題はまた見つかる。
だから、再び過ちを犯すことのないように、考える。
それが、経験。
その積み重ねなのだと大友は言った。
そして、池澤の死を無駄にしないために、哀しみを押し殺してでも、課題として残さなくてはならないのだと。
生きて帰るために。
「生きて、帰る…」
少し前、大輔はその言葉を救難現場で環菜に言った。
生きて帰る。
そして、環菜を幸せにする。
声にならない是を、環菜は返してくれた。
だから、大輔は定めた。
生きて、帰ると。
保大を見上げていた大輔の、携帯が静かに鳴り始めた。大輔は慌てて携帯の着信画面を見て、思い出したように目を見開いた。
「あ、やば…」
『呉についたら電話するよ』
『ふ〜ん、どうせ学校の方に行っちゃうんでしょ?』
『ない! まっすぐに環菜に電話するし、飛んでいくし!』
『…………期待しないで待ってます』
「もしもし…」
おそるおそる電話に出れば、環菜の小さな溜息が聞こえた。
『まったく』
「いや、その…………ごめん」
『で?』
「保大の、学校の前です」
『分かってるよ』
響いた靴音に顔を上げれば、穏やかに苦笑している環菜がいて。
環菜が歩み寄りながら言った。
そんな気がした」
「環菜…」
大輔は思わず、携帯の不通話ボタンを押した。
「三島…さん?」
「ほら、何回か話しただろ? 同期の、俺と一緒にダイブマスター持ってて」
「……………ああ、海猿の中で唯一理性的な人」
「………………それって、俺は理性的じゃないってこと?」
「え? あ、まあ……」
「それはないよな、俺は十分理性的だよな」
あははと笑う大輔の横で、環菜は思わず思い出す。
かつて同窓会のような集まりで、撮った写真をエリカが送ってくれた。その中で確か唯一脱いでいなかったのが、さっき大輔が保大で会ったという三島だろう。その写真の中で大輔もおしりの割れ目までさらけ出していたことを環菜は忘れてはいない。思わず顔を背けて、密やかに言った。
「大輔くんも脱いでたじゃない」
「ん?」
「ううん、なんでもないよ」
「すげえんだぜ、特救隊だぜ? 潜水士の中でもたった36人しかなれない、エリート中のエリートだぜ? そんなのに、三島、もうなっててさ」
「…………大輔くんだって、機動救難士っていうのも、すっごく数が少ないんでしょ?」
自分で本を調べて、海上保安官がどういう仕事をしているか学習した環菜は、大輔が時折する話のおかげで、機動救難士がどういう仕事で、如何に選ばれた者たちかを理解していた。
「まあ、な」
特殊救難隊は救助要請があれば、管区を越えて出動する。ヘリなどを乗り継いで最速で現場に到着し、ありとあらゆる技術を用いて、潜水士として選び抜かれた者たちが救助を行う。特救隊は機救士である大輔の、あこがれでもあった。
そのあこがれに、同期の三島がたどり着いたのは、夢が少し現実になった瞬間でもあったのだ。
「えっと、キッキュウ隊とか、トッキュウ隊とかわからないけど…でも、大輔くんが一生懸命に、大切にお仕事すれば、いずれ道は開けるんじゃないの?」
環菜の穏やかな言葉に大輔は一瞬考え込んだけれど、やがて小さく頷いて。
「ああ、まあ、そうだろうな」
そうだ、道は開けるだろう。
池澤は、大輔の未来を見ていた。
特救隊を目指すことができる、と。
「…………環菜」
「ん?」
「あのさ、もし鹿児島から異動で関東に行くことになったら…」
「え?」
横を歩いていた環菜が大輔の顔を見上げる。
大輔は穏やかに、そして静かに言った。
「ついてきてくれよな」
「うん。当たり前でしょ」
さっきまで、胸の中でむずがっていたのに、駅に降り立った瞬間から娘は笑顔になった。
「まったく、海の匂いでそんなにご機嫌変わるの〜?」
覗き込めば、一層ご機嫌よろしくなって満面の笑みを浮かべている。
池澤尚子はずっしりと重くなった我が子を抱えなおしながら、僅かな波頭が陽光を受けて銀色に輝く海を見た。
結婚式当日。
控え室で大輔は、制服を着ていた。先ほど鹿児島から駆けつけた吉岡が、こちらはスーツを着ながら言った。
「さっき、保大に行って来たんですよ。教官たち、元気だったっすよ」
「ああ、俺もこの前会って来た」
「大友教官が、あとで来るって行ってましたよ。招待したんですか?」
「…………尚子さんが来るからな。大友教官は池澤さんも尚子さんも知ってるらしいから、付き添いにな」
「え………………」
吉岡が、ネクタイを締め直しながら動作が止まった。
「そうなんですか?」
「俺もこの前初めて知った。お前の潜水研修の時、教えてくれなかったんだよ。俺のためを思ってだったんだろうけどな」
「知らなかった…………て、池澤さんの奥さんも来るんですか?」
「ああ。真子ちゃんも連れてくるって、尚子さん言ってたらしい」
「来るって、奥さんは銚子でしょ?」
大輔は肩を竦めた。
「環菜が尚子さんと真子ちゃんに出席して欲しいってお願いしたんだよ」
環菜がどうしても結婚式に出席して欲しいと願ったのは、大輔のバディである吉岡と、かつてのバディの妻・池澤尚子とその娘・真子だった。
吉岡はともかく、まだ1歳になったばかりの幼子を連れている尚子までを遠く呉まで呼ぶのは気が引ける大輔に代わって連絡したのは環菜だった。
『ホントに? おめでとう! うん、是非とも出席させて貰うわ! 真子ももちろん連れて行くわね』
尚子が来る気満々では、大輔も止めるわけにはいかなかった。
「大友教官が尚子さんたちを迎えに行ってくれてるはずなんだけどな」
そのとき、部屋の扉をノックする音に吉岡が答えた。
「はい」
「失礼します〜」
こっそりと入ってきた姿を、振り返って見た大輔は満面の笑顔で迎えた。
「尚子さん」
「仙崎くん……………うわあ、すっごくカッコいいね」
答えるように満面の笑みで池澤尚子は大輔の頭の先からつま先までを見つめて、一層にっこりと微笑んだ。
「うん、カッコいいよ」
「ありがとうございます」
歩み寄りながら、大輔は尚子の腕の中にいる真子を覗き込んだ。
「真子ちゃん」
「さっきまではしゃいでたの。汽車の中でずいぶんぐずったんだけど、呉の駅に降りた途端、もうはしゃいではしゃいで…疲れたかな」
「うわ、可愛い」
ほとんど初対面に近い吉岡が真子の寝顔を覗き込んで、そっとその頬を押す。
「やわらけ〜」
「バカ」
大輔の控えめなパンチが吉岡の脇腹に入る。
「お前の汚い手で触んなよ」
「ひど、それはひどいっすよ、大輔さん」
「尚子さん、吉岡です。俺の今のバディです…ながれに乗ってたから池澤さんのことも知ってます」
「そう」
尚子は小さく吉岡に頭を下げて、
「池澤です」
「吉岡です」
「尚子さん、あの、俺、真子ちゃん抱いてもいいですか?」
大輔の言葉に、尚子は慌てる。
「嬉しいけど…仙崎くん、後にしない? ほら、式の前だし、もし制服汚しちゃったら…」
大輔の着ていた制服は純白のもので、尚子はもし真子が汚してしまったことを考えたのだが、大輔は小さく笑いながら、
「大丈夫ですって」
「…………環菜さんに怒られても知らないわよ」
「はい」
爽やかな笑顔の大輔の腕の中で、ぐっすりと眠る真子は小さく身動ぎしたけれども、すぐに安心したようにまた眠りについた。