swim to fly in the sky 3






「けっこう、たいへん、ね…プールでも………………」
「大丈夫か?」
「うん、まだ大丈夫。ちょっと……びっくりしただけ」
「そっか」
レギュレーターを放り投げるように外して、環菜は空を見上げた。
つられた大輔が見上げたのは、やはり琉球ガラスのような澄んだ青い空だった。
ダイビングライセンスを持っていない環菜が、そのまま海でダイビングすることは出来ない。もちろん、呉で潜ったことはあるけれど、それはダイブマスターの資格がある大輔がいてこそのダイビングだった。環菜だけでは潜ることすらできない。器具の操作なんて、全く分からない。
大輔に言われるまま、ダイビング用のプールに入り、言われるまま動いた。
そして合図のまま、水面に顔を出した。
「はあ………………」
「大丈夫か? 午後から、沖に出るけど…明日にするか?」
「ううん。行く」
その声だけは力強く返ってきた。
「大丈夫」
「しんどかったら言えよ………………無理そうなら、止めるぞ?」
「うん。ちゃんと言うよ。でも、いけるよ」
陸に上がれば、機材の重さに少し揺れる環菜の細い身体が、自分のように鍛えあげ、体力が有り余っているのではないことを感じながら、大輔が言うと環菜は何とか笑顔を返した。
「大丈夫だって」
「………………そうか」






午後のダイビングの準備まで幾分時間があるので、環菜には休むように言って、大輔は民宿・金城のダイビングショップに顔を出した。
大輔に最初に気づいたのは晴行だった。大輔も晴行に会うのは数年ぶりだけれど、すぐにそれと分かった。
「お、晴行?」
「大輔さん? うわ、久しぶり〜」
近況を報告し合ったあと、晴行が聞く。
「あれ、奥さんは?」
「ん? 午前中にプールに潜らせたから、ちょっと疲れて休ませてる」
「……そんなすぐに疲れて、大丈夫?」
「最初だからだろ? 耳抜きも出来てるから問題ない」
「………………まあ、ダイブマスターが言うなら間違いないだろうけど」
沖縄本島の大学で海洋生物学を専攻している晴行はもちろん日常的に潜るために、ダイブマスターとナショナル・ジオグラフィック・ダイバーのライセンスを持っている。だからこそなんとなく心配になって。
「無理させないほうがいいとは思うけど」
「うん。だけどな、環菜、あ」
「奥さんの名前でしょ? 可愛い名前だね」
褒められると、思わず大輔は照れて、
「そうか?」
「うん。で、環菜さんがどうしたの?」
「環菜がどうしても潜るって」
「ふぅん」
「前に一度、瀬戸内海で潜ったんだけど」
大輔の言葉に、晴行は眉間にしわを寄せて、
「じゃあいいじゃん。それよりさ、大輔くんが一緒なんだから、プール、必要ないでしょ?」
「あのさぁ、晴行。俺はこれからも環菜と潜りたいの。だから、ライセンス取らせてやりたいの」
「あ、そうですか」
これ以上惚気を聞かされたら腹が立つもんなぁ。晴行が小さな声で呟きながら、店の奥に入り、しかしすぐに顔を出して、
「大輔さん、持ってくのこれでいいか、確認してよ?」
「ああ。そういや、晃さんは?」
「午前中のダイビングに行ってるよ。午後からは大輔さんたちだけだから、ゆっくりしてていいんじゃない?」
大輔と環菜だけ、ではないだろう。おそらく晃の配慮で『貸し切り』にしてくれたのだろうと、気づいて大輔は苦笑する。
「そっか」
「だから、確認しといてね〜。あ、いらっしゃいませ」
晴行は店に入ってきた客の対応に飛んでいった。
店の構造は、かつて大輔が住み込みで働いていた頃と何一つ変わっていなかった。裏口に入り込むと、そこにはダイビングの機材が整理されておいてある。その一角に置かれた2セットの機材の上に、豪快な晃らしい字で、『大輔』と書かれた紙が置かれていた。大輔は思わず苦笑しながら、紙を手にしてそこに置かれた機材と、書かれている機材リストと照合してミスがないことを確認して、紙を同じ場所に置いてから辺りを見回した。
そして、一カ所に目をとめる。
居並ぶ機材の上、ずらりと飾られた写真があった。
そのうちの一枚に大輔は見覚えがあった。
その写真たちは、夏の終わりに毎年金城家とそのとき宿泊していた全員で取る、記念撮影写真だった。
7年前。
まだ大学生だった頃。
一度だけ、大輔もその写真に収まった。その写真が少し色あせながらも、飾られていた。
確かシャッターが切られる寸前、大輔の近くにいた人間があまりにもくだらないギャグを口にした。笑って良いのか、無視するべきかわからなくて。
写真の中の大輔は、困った表情を浮かべていた。
だって、そのときくだらないギャグを言ったのは、晃だったから。
『えいか〜、笑えよ! 布団がふっとんだ!』
誰が笑うんだよ、おっさん。
というわけでそこに映った誰もが、否、実の息子の晴行だけが明らかに冷たい視線を父親の横顔に浴びせかけ、ギャグを言い放った本人だけがご満悦で、満面の笑顔で写真に収まっていた。
そんな奇妙な写真がそこには飾られていた。






夢を、見た。
青い海。
青い、空。
そこは海か、空かも分からないほど青一色の世界。
環菜はふわりふわりと、まるで空に浮くように、海に浮かぶように、ゆったりとたよたうていて。
だけど、どこか心の底は安心して。
差しのばした右手には、しっかりと握りかえしてくれる誰かの掌があって。
環菜は目を開けずに、それが誰か、分かっていた。
大輔だ。
ずっと傍にいてくれる。
きっと傍にいてくれる。






幸せそうに微笑む環菜の寝顔を覗きこんで、大輔も思わず微笑んだ。
そろそろ午後になる。
昼食に起こそうと環菜を覗き込んで、軽く開かれた右手に自分の手を添えた。
柔らかく握りかえされて、起きているのかと驚いたけれども。
寝顔を見れば、熟睡しているのが分かった。
きっと、幸せな夢を見ているのだろう。
「環菜………………」
起こすのは可哀想な気がしたけれど、大輔は密やかに声をかけた。環菜はゆっくりと目を開き、大輔を認めて、微笑む。
「大輔くん」
「おはよ。そろそろ午後の部が始まるから、昼飯食べて、金城に行こうか」
「うん」
「夢でも見てた?」
少しぼんやりとベッドの上に起きあがりながら、環菜はとてもとても嬉しそうに頷く。
「うん」
「どんな夢?」
「…………すっごく、綺麗でうれしい夢だよ」
結局環菜は、大輔に夢の内容を教えなかった。





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