swim to fly in the sky 4
「伊沢……じゃなかった、仙崎環菜です。はじめまして」
慌てて名字を言い直す環菜を、大輔は満足そうに見つめて。
晴行が冷やかす。
「いやだね、大輔くんのその、いやらしい顔」
「いやらしいって、なんだよ」
「まあまあ」
晴行と大輔を力ずくでなだめた晃が、両脇に二人を挟み込んだまま、目を丸くしている環菜に声をかけた。
「はじめまして、金城晃です。で、こっちが」
右脇にはさんだ晴行の頭を幾分差し出して、
「息子の晴行。でこっちが」
左脇の大輔の頭を差し出し、
「息子みたいな大輔くんな」
「は、はあ……」
「父ちゃん、頭が割れる」
「人間そんなに簡単には壊れんさあ」
「無茶しないでくださいよ……死ぬかと思った」
小さな声で抗議する大輔と晴行を放り出して、いかにも海の男といった体の晃が環菜に問う。
「午前中にプールで練習したんだね?」
「あ、はい。大輔くんに言われるままで、何がなんだか分からないんですけど」
環菜が素直に言うと、晃は豪快に笑って。
「心配せんでも、大輔くんがついとる。なんたって……なんて言ったかなぁ」
晃が小首を傾げていると、環菜が答えを出す。
「バディ……のことですか?」
「おお、それそれ」
なんだか兄弟のように戯れながら、機材を船に積み込む大輔と晴行の後ろ姿を見ながら、晃は穏やかに言った。
「潜っている間は、常に二人で行動するんだって………昔、大輔くんが言うとったなあ。ほら、大輔くんの性格から考えたら、友達多そうに見えるけど………大輔くんが言うには随分人見知りがあったみたいやなぁ………」
「………………そうなんですか」
「それに比べれば、随分丸くなったな」
晃は船に乗り込む環菜に手を貸しながら、静かに言った。
「前回潜りに来たのは海保に転職が決まった時で、もう楽しみで潜ることはないかもしれんいうてたけども……奥さんのおかげやな。大輔くんが自分の楽しみで海に潜ることができるようになったのは」
「いえ、そんな」
「いいや。きっと、あんたは大輔くんのいいバディになるよ」
かつて。
大輔が、バディについて語ってくれたことを環菜は思い出していた。
『バディって、海の中では常に一緒に行動するんだ。だから…信頼している。命を預けられる相手だから』
命を、預ける。
信頼する、強さ。
信頼される、強さ。
環菜は、かつて錦江湾に沈んでいくくろーばー号を見つめながら、考えていたことを思い出した。
大輔は絶対に生きている。
信じることが、大輔の命をつないでいるのだと。
必死で自分に言い聞かせていた。
聞こえてくる、無線の無情な応えも、否定して。
完全に沈没して、保安官たちが大輔たちの生存をまだ信じていることに一層心を強くした。
「バディ……」
素敵な、言葉。
環菜は素直にそう感じた。
大輔の後ろ姿を見つめながら。
民宿の手伝いに残った晴行に見送られて、船は沖に出た。
環菜は大輔に言われるまま準備を整え、重たい機材を背負って少し鼻息荒く立ち上がった。自分の準備をそそくさと整えていた大輔が小さく笑った。
「おいおい、無理しなくて」
「いいの。だって、歩けなきゃ…潜れない……」
誘導してやるのに。
大輔の言葉も振り切って、環菜は苦笑している晃に見送られて、海に飛び込んだ。
どこまでも、青く、透明な世界へ。
「じゃ、行きます」
「おう。素人さん連れて、無理する……はずはないか」
「ええ」
大輔はまた小さく笑って、マスクを装着し直して、晃に笑いかけた。
「じゃ」
「おう」
小さな笑みは、だが、晃が今までに見たことないほど力強いものだった。
派手な水音がしたけれども、晃はそれを確認しようとはせず、一人で苦笑する。
「なんだよ、男になってるしなぁ」
大輔は環菜の左側を泳いでいた。
環菜が大輔の姿を探すと、いつだって自分の左側にいる。その理由を、環菜はあとで知る。
時折大輔が自分の何かを操作してくれるのは気づいていた。だけれども海の中では環菜はそれがなんなのか、知る余裕すらなかった。
『いいか? 呼吸だけを忘れないこと。環菜はそれだけを気をつけてればいいからな』
満面の笑みでそういわれて、環菜は力強く、というよりそうするしかなかったのだが、頷いて大輔よりも先に海に入った。
青い、世界だった。
大輔が忘れるなと言った、呼吸すら忘れそうになるほどに、美しい世界だった。
数度左肩をたたかれて我に返り、振り返れば大輔がいたのだ。
大輔が促すままに、環菜は泳ぎ始めた。
呼吸を、忘れないこと。
大輔の言葉を、何度も何度も反芻しながら環菜は手を引く大輔についていく。
時折現れる、色とりどりの魚は大輔と環菜に驚いたように方向を変えて泳ぎ去る。二人の下には、一面のサンゴが群生している。
美しい、光景だった。
不意に、それまで引いていた大輔の力が抜けた。思わず景色に見とれていて、そのことに気づくのが遅れた環菜を、今までとは反対に大輔が手元に引き寄せる。環菜が慌てたように何度も瞬きを繰り返すと、目が笑っている大輔が上を指差した。環菜はゆっくりと上を見上げた。
そこには大輔と環菜、二人が吐き出した空気がいくつもの球形を作りながらゆっくりとあがっていく。その空気の玉を追うように環菜が顔を上げれば、視界の隅を一瞬の闇が横切った。
環菜が慌てて真上を見れば。
そこには、正方形の何かが浮かんでいて。
それもひとつふたつではない、数。
大きさもそれぞれ違う、何か。
だが、環菜はそれをパンフレットで読んで知っていた。
大輔を見やれば、大輔も理解しているように頷いて。
それは、美しい光景だった。
見上げれば青い空は、青い海の色と溶け合って。純白の光がゆらゆらと波頭の狭間から差し込んでいて。
影だけを落とす、マンタの群れが悠然と泳いでいる。
大小30ほどの魚影が、ゆうたりと空を飛ぶかのように泳ぎゆく。
空を飛ぶ、ように。
悠然と。
しかし強く。
やんわりとゆるやかに見えるマンタの泳ぎはいかに力強いか、速さが示しているようだった。
ただ黙って、見上げていた環菜は大輔の右手を取った。
不思議そうに見つめる大輔の右手に、環菜は自分の右手でゆっくりと何かを描いた。
ゴーグルの奥で大輔の目が微笑んだ。
力強く頷いて、大輔がすでにマンタが姿を消した浅い海を指差した。環菜も頷いて大輔の手が導くままに、やわらかい陽光の差し込む空を目指した。