バタン。
ロッカーの扉を閉めてから、嶋本はため息をついた。
今日の仕事が無事に終わったことの安堵と、
明日朝一番の新幹線で大阪に帰ることの安心と、
そのすぐあとに控えている『一大イベント』への決意と。
すべてが混じって、溶け合って、嶋本のため息になる。
「お疲れ様でした〜」
大阪に帰っている間に、官舎で洗濯してしまおうとためてしまっていた洗い物を山ほど詰め込んだディバッグを背負いなおしながら、事務所に声をかけると、意外な人物がそこにいた。
「あら、シマ。ずいぶん大荷物ね」
「い、五十嵐機長!」
嶋本の背筋が伸びて、思わず最敬礼をしてしまう。
真田が机の上に書類を広げながら、敬礼している嶋本をちらりと見た。
「どうした、嶋本。帰らなくていいのか?」
「あ、そうなんですけど〜」
「シマはもうあがり?」
大きなディバックを背負っている嶋本の背中を見て、五十嵐恵子は穏やかに、しかし切れ長の目元に思惑を含んで言う。
「あら、ずいぶんと大きな荷物ね」
「あ、いや…洗濯物を…」
「男の一人暮らしの悲しさね。だから前にも言ったでしょ。さっさと」
しまった。
嶋本が五十嵐を制止しようとしたときには、もう五十嵐という名の爆弾が爆発したあとで。
「付属病院の氷野先生を呼び寄せなさいって」
「機長………」
散乱した書類をまとめながら、真田が問えば五十嵐は含み笑いのまま、
「あら、真田くんは知らないの? シマの彼女」
「いるというのは聞いている。医者だとか…なるほど」
氷野先生というのか。
のほほんとした真田と五十嵐の会話に、事務所にいた全員の耳がうちわになるほどダンボになっていることに嶋本は気づいたけれど。
もう、引き返せない。
いや、隠すつもりなどなかったからなおのこと、五十嵐が話のネタにしたことが嶋本のため息の原因になった。
「機長……」
「なに?」
わざとですか、なんて口が裂けても言えない。
昔から、5管にいた頃からこの無敵な女王さまには逆らうな、逆らえば血の雨が降ると言われてきた。だから、どうしても五十嵐への苦手意識が消えない。五十嵐もそれを知ってか知らずか、いつも嶋本をからかうのを楽しみにしているようだ。
「………なんでもないです」
「そう。お元気? 氷野先生」
「ええ、元気ですよ。先週も学会でアメリカやったか行ってたらしいから」
お土産いるの? じゃあ、ニューヨーク饅頭?
電話先でのたまったさとりに、思わずつっこみたくなるのは関西人の性で。
「ふぅん」
何かの訓練の打ち合わせで真田に会いに来たはずの五十嵐の目的は、いつのまにか嶋本に移っていて。
「シマ」
「はい?」
「……休暇の間、大阪帰るのね」
「え、あ、はい……」
なんだろう、この奇妙な間は。
嶋本の背中を、冷たい汗が伝う気がしたのは…気の所為ではなかったかもしれない。
「じゃあ、生茶ゼリィがいいわね」
「………………はい?」
「中村藤吉の生茶ゼリィよろしくね」
嶋本は一瞬あっけに取られて。
「………土産、ですか?」
「そう」
「中村藤吉って……まさか、洛南の?」
「ほかにあるの?」
「………わかりました」
しおらしく嶋本は事務所を出て行く。誰かの声が「気をつけて帰れよ〜」と響いたが嶋本の返事はなく。
「イガさん、嶋本をいじめてくれるな」
「あら。あたしはデートコースを教えてあげたのに」
「………どういう意味だ」
「真田くんに教えても、意味がないから教えない」
切れ長の目は、相変わらず意味を含んで笑んでいて。
真田は肩をすくめてため息を吐いた。
大阪に帰ると、本当にうれしそうだったのに。
これでは、少し可愛そうだな。
「大丈夫よ、真田くん。シマはこのぐらいではへこたれないわよ」
意味を含んだ笑みのまま、無敵の女王は告げる。
「だって、あの真田甚の、通訳ができるだけあるもの」
「そういう……ものかな」
「ええ」
「なら、いい」
神から使わされたもののふと、無敵を誇る女王が見詰め合って笑っていることを、駐車場に向かう嶋本は知らない。
数回『中村藤吉の生茶ゼリィ』とつぶやいて、顔を上げた。
「あかん、やっぱり店の場所が思い出せんわ。さとりに頼んで探してもらお」
そう決めて、車に乗り込んだのだった。