009 命のつながり





さとりは、ただ黙って見つめていた。
さとりのいる控え室まで、家族の嗚咽が漏れていた。
泣き叫ぶのは、母親の声。
必死に息子を呼びつづけるその痛ましい声に、だがさとりはただ黙って見つめていた。
「氷野くん」
死亡確認を告げた先輩医師がさとりを呼ぶ。さとりは黙ったまま先輩医師の元に向かう。
「落ち着いたらご家族を霊安室に。その間にエンジェルセットの指示を頼む」
「……はい」



何度も見てきた、光景だった。
小児科医であるさとりにとっては、見慣れた光景。
だが、どうしても心の奥底、喉の奥底で生ぬるい何かがつまっているような、そんな奇妙な感覚を覚える。
患者の、死。
救える命もあれば、力及ばない命もある。
息を引き取ったのは、半年ほど前に入院してきた高居将多だった。
既に幼い全身に血液ガンが転移していて、ホスピス、緩和ケアしか行えなかった。
主治医である先輩医師も、痛みを取り除くことしかできないと、家族には告知していたけれども、家族はあきらめなかった。
将多につながる親戚をすべて訪ね歩いて、骨髄移植の依頼をして回った。
だが、将多と適合する親戚はおらず。
幼いだけに、将多の症状は急激に進み。



『先生……』
日に日に痩せ細っていく、将多の枯れ木のような手を、さとりはいつものように撫でていた。
さとりにできることはそんなことくらいだ。
将多が静かに、言った。
『先生、ぼく、死んだらどこに、行くのかな…』
『将多』
『誰も知らない場所に、行っちゃうのかな……』
痩せ細った頬を、涙が伝う。
『パパも、ママも、僕のこと、忘れちゃうのかな……』



痩せていく我が子の看病をしながら、だが母親の腹部は次第にせり出し始めた。
将多が危篤に陥った1週間前、さとりは母親に懇願された。
『先生、分娩前診断を行うことはできませんか?』
『え?』
『この子の、骨髄のタイプは将多と合うかどうか、調べてほしいんです』
それは許されない、行為だった。
死の淵にいる我が子を救うために、新たな命を危地に向かわせることだった。
将多の骨髄移植の話が出たのが、6ヶ月前。
母親は妊娠5ヶ月。
うわさが生まれた。
我が子のために、我が子を『道具』にすると。
母親は、否定も肯定もしなかった。
だが、問い掛ける医師に静かに言った。
『将多も、この子も、私の子です。私と主人が望んで生む子です』



それ以上を問う権利も時間も、将多には残されず。
妹か弟の誕生を待たずして、少年は永遠の眠りについた。
そして、父親は呆然と、母親は少年に縋って泣いている。
「しょうた、しょうた!」
肩を揺らしても、抱きしめても、もう、彼は答えない。
体温はいずれ失われ、体は硬直し、ゆっくりと命の灯火が消えていく。
もう何人、見送っただろう。
小児科医である以上、さとりが見送った患者たちのほとんどは幼い子供たちだった。
穏やかに旅立った子も。
ただ黙ってなきつづけた子も。
泣き叫び、痛みを訴えつづけた子もいた。



さとりの頬を、透明の涙が一筋零れ落ちた。



「将多、言ってました。ずっと家族と一緒にいるって。弟か、妹ちゃんと見といてあげるって」
静かなさとりの言葉に、呆然と立ち尽くしていた父親が顔を上げた。
「きっと、パパとママのことを忘れないからって」
話すにも不自由な酸素マスクをつけられたまま、荒い息で将多が微笑みながら言った言葉。さとりは一言一句間違えないように告げた。
「ぼくはみんなのそばにいて、みんなはぼくのことを今まで守ってくれたから、今度はぼくがまもる番だって」
「………将多」
浮かんだ涙がポロリポロリと転がり落ちた。
さとりは黙って頭を下げて、病室の外に出た。
薄暗い廊下の端で、大阪の夜景が映し出されているのを、さとりはちらりと見やって。
「………将多は、優しいなぁ………」
背筋を伸ばして、病室に向かって、頭を下げた。



医師である以上、生死から目を背けることはできない。
それが責務であり、仕事であるから。
だけども、自分の甥姪と同じ年頃の子供たちが、まるで達観したかのように死を受け入れるのはあまりにも悲しかった。
そして、将多が言った一言。



さと先生。
ぼくね、行くところようやっとわかったんや。
あそこ。
ママのおなかのなか。
弟か、妹といっしょにうまれてくるんや。
さっき夢みたん。
いっしょにおってええよって、弟がいうん。
だから、ぼくね、行くところわかったよ。



遺族の前で決してしてはいけないといわれてきたこと。
さとりは暗い廊下の壁に背中をぶつけるようにして凭れ、両手で口元を抑えた。
自分の嗚咽が漏れないように。
自分の声が遺族に届かないように。
ゆっくりと目を閉じれば頬を伝う暖かな涙の感触を感じて。
さとりは、心の中でつぶやいた。



ごめんね、将多。
助けてあげられなくて、ごめんね。



きっと将多は、理解していた。
自分の命が尽きても、母の胎内で育つ命が『次へつながる』命だと。
きっと将多は、知っていたのだ。
それでもいいと、思える強さ。
わずか6歳の少年が、命のつながりを理解していたなんて。
悲しい、現実だった。



暗い廊下に、漏れるのは母の息子を呼ぶ声。
さとりは唇をかみ締めて、嗚咽を飲み込み、自分の目じりを拭ってもたれていた壁から俊敏に立ち上がった。
悲しみに暮れるのは、遺族がすること。
自分がすべきは、医師としての責務。
さとりは病室に向かって一歩踏み出した。




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