010 また明日。





今日は通常勤務の日、のはずだった。
6時には勤務を切り上げて、自宅マンションに帰っているはずだから7時過ぎに自宅の電話を鳴らしてみたけれど、出る気配はない。
「なんや〜、お〜い、さとり〜」
受話器に向かって呼びかけても、答えはない。
嶋本は小さく首を振って、呼び出し音を鳴らしつづける電話を置いた。
「出んの? さとりちゃん」
「なんかわからんけど、急患でも出たんちゃうか? いっつも忙しいやつやから」
母親の言葉に、座りながら嶋本は大好物ばかり並べられた食卓を楽しそうに見つめる。
「うわ、豪勢やなぁ」
「さとりちゃんも一緒に食べたらえいのに」
「そんなこと言うたかて、電話に出んのやから仕方ないやん。俺、食うてかまんやろ?」
「ちょっと進次!」
母親の制止も聞かず、嶋本は食事を始めていた。



『お〜い、さとり。仕事か? 帰って来てるから、連絡せえよ。じゃあな』
次のメッセージです。
『さとり、えらい遅いなぁ。何時でもえいから、電話せえ。俺、待ってるからな』
メッセージは以上です。
女性の声が、留守番電話センターに残された嶋本の声を届けてくれて。
さとりは電話を切って、額をロッカーにこつりと当てた。
金属製のロッカーの扉はその冷たさでさとりの体温を奪っていく。
突然の急変だった。それも立て続けに、3人。それがどれもさとりの担当患者だったから、時間は既に11時。
さすがに、疲れた。
まるで自分の体が自分のものでないような、そんな重さを感じていて。
深く、長くため息をついて。
さとりは何とか体を起こして、自分に気合を入れる。
ダメ、とりあえず進次に電話をして。
それから……。
そのとき、手の中の携帯がブルルと震えた。サブディスプレイを見れば、『嶋本進次』の表示。
さとりは慌てて、受話ボタンを押した。
「もしもし」
『遅い〜!!』
「ご、ごめん……今、留守電聞いたところで……」
平謝りのさとりの耳元で、嶋本の苦笑が聞こえた。
『まだ仕事やったんやろ?』
「うん、急患が入っちゃって」
『で、終わったんか?』
「今から着替えて帰ろうかと思ってて」
『そか。じゃあ、はよう降りて来い』
「え?」
『夜間通用口の外で待ってるわ』



慌てて準備を整えて降りてきたさとりに、2ヶ月ぶりに合う恋人はにっかりと笑いながら、風呂敷包みを持ち上げた。
「進次、迎えに来るなら来るって」
「そやかて電話してもおまえ、出えへんやないか」
逆襲に思わず言葉を飲み込んで、さとりは話題を変えた。
「その風呂敷包み?」
「おう、これな」
嶋本は軽々と大きな風呂敷包みを再び持ち上げて、
「おかんが持っていけって。おかん、勝手にさとりが家に来るもんやと思うてたみたいで、ぎょうさん料理作ってしもうて。持ってけ〜って、俺を追い出しやがって」
「あらら」
苦笑するさとりの横顔をちらりと見て。
だが嶋本は思うことと違う言葉を口にする。
「なあ、ろくに食べさせてもらえんかったから、おまえんちでこれ、食べてえいか?」
「ん? ああ、それはいいよ」
疲れきった表情で微笑むさとりの横顔は、どこか痛々しく。
「ビールも買うてきたからな〜、なあ俺の歯ブラシ、まだ残してるか?」
「進次のものなんて、捨てへんよ」
穏やかに笑うさとりを、進次は笑顔で、しかし思いを含んで見つめていた。



さとりのマンションは、病院から電車で2駅、20分。
「相変わらず、部屋はきれいやなぁ」
嶋本が感心する。さとりはどんなに疲れていても、家事を疎かにすることはない。少しぐらい休んだ方がいいと、嶋本がアドバイスしても、さとりはどんなに疲れていても、家事を片付けてからでないと、眠れないのだ。幼い頃から家事をしてきた習性だとさとりは笑うが。
「えっと、小皿はこの辺やな」
「いいよ、進次。あたしが出すから」
「おまえは仕事してきたんやから座っとれ」
嶋本の勝手知ったる動きで、すぐに夕食の準備が整い、さとりは嶋本家の夕食をありがたくいただいた。
ええか、絶対動くなよ。片付けは俺がするからな。
そう告げられて、ソファに座っていたさとりの耳に、片づけをしているのだろう、陶器やガラスが軽くぶつかる音がする。最初は心配だったけれど、何より疲れと安堵が勝り、さとりの瞼は次第に閉じられていく。
「終わった〜……って、もう寝てもうたか」
嶋本はくすりと笑って、ソファで眠ってしまったさとりを抱えあげた。
体重は自分の方が少し重いけれど、身長で15センチ以上さとりの方が高いのだ。もう4年、さとりとつきあっている。だからさとりをどう抱えあげればさとりが起きないか、そんなことはわかりきっていた。
すややと眠るさとりをベッドに放り込み、さとりの顔を覗き込む。
「今日渡そうと思うてたけど、無理やったなぁ…」
左手がポケットの中の、小さな箱をまさぐった。
嶋本は苦笑する。
「なんかあったみたいやし。しゃあないな、今日はもう寝るか」
そうして嶋本は、さとりの横にもぐりこんだ。
「さとり、明日は逃さんからな」
怖いような、捨て台詞とともに嶋本も眠りについた。




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