目の前を、おどけた表情のハリセンボンが通った。
体の割に小さなひれを懸命に動かしながら、それでも巨大水槽には幾分の流れがあるのだろう。ひれで生み出すスピードより遥かに早い勢いでハリセンボンはさとりの前をとおりぬけていった。
「おお、早いなぁ」
嶋本がぼんやりとしていたさとりに、缶コーヒーを渡した。
「カフェオレでよかったな?」
「うん、ありがと」
暖かさを感じながら、さとりは小さくため息をついた。
横に座った嶋本はちらりとさとりの顔を見上げて、ぽつりと言う。
「なんや、つまらなさそうやな」
「え? そんなこと」
「つきあい始めた頃に、ずいぶん連れてけ〜って騒いだんは誰やったか?」
まるで子供のように、水族館に行きたい、忙しいからまた今度、今度っていつ、と喧嘩したことを嶋本は言っているのだ。さとりは苦笑しながら、プルタブを引いた。コーヒーの香りが広がっていく。
「あたしだ」
「そや。やから、悪いと思うて連れてきたんやけど」
もう興味ないか、お子様やないもんな?
嶋本の言葉は、実は嫌味なのだが嫌味に聞こえない。
さとりは小さく息を吐いて。
「ごめん」
「謝らんでもえいよ」
「……そうじゃなくて」
「俺の休みにつきあえんで、すまんって言いたいんか? というより」
嶋本はさとりの顔を覗き込んで、低い声で言った。
「お前、病院でなんかあったやろ」
「…………え?」
嶋本は言葉を続けた。
「夕べから変やった。今朝もそうや。ずっとなんか考えとる。心、ここにあらずってやつや。それも病院のことや」
「進次」
「あほやな、おまえも」
嶋本は小さく息を吐いて、
「前から言うてるやろ。病院や患者さんのことを考えることは悪いことやない。俺とおるときも、忘れんでえいって言うてきたやん。やけど、お前、なんかあったんか?」
ふわりふわりと回遊大水槽を漂うように、アカエイが泳ぐ。
それを見ているわけでもないのに、さとりの視線は大水槽の中を彷徨った。
嶋本も、命にかかわる現場で仕事をしている。
だから一瞬の判断で幼い命を救うさとりを心から尊敬して、すべてを受け入れているつもりだった。
付き合いだしてまもなく、重症患者のことを考えていたさとりは履き慣れないミュールで階段を踏み外した。嶋本が問いただすと、小さな声で診療方針を考えていたと告白したのだ。嶋本は笑い飛ばした。
『おまえなぁ、そんなん考えるの、あたりまえやんか。謝る方がおかしいわ。守秘義務にひっかからんぐらいで俺に言うのも、俺は全然かまへんけどな』
なのに、4年そうやってつきあってきた彼女は、今更ながら言いよどんでいるのだ。
「………すっごく、優しい子がいたの」
ぽつりと告げられたさとりの言葉。
「優しくて、でも死ぬのは怖いって、みんなから忘れられるのが怖いって、泣いてた。でも、その子が最期に言うたんは、ぜんぜん違うことやったの…自分が両親を、兄弟を守るって」
消えていく命と、生まれてくる命。
命が命を想う。
「すべての子供を救えないことはわかってる……でも、できる限り助けたいの。でも」
さとりの頬を一筋、涙が伝う。
「ありがとうって感謝されながら逝かれるのは、すごい悲しいよ……」
目を背けてはいけない、とわかっている。
手を差し伸べなくては、と想っている。
実際、そうしていても、心の片隅が砕けていくような、そんなもどかしさと悲しみがどうしてもさとりの中から拭えないのだ。
ぽたりぽたりと頬から顎を伝う涙を、嶋本が拭う。
「さとり」
「ごめん……」
鼻をすすって、さとりは無理に笑ってみせた。
「だめやね、あたしって。逃げてるわ」
嶋本は黙って立ち上がり、さとりの前に立った。
15センチ近く背の高いさとりの座高が高いために、嶋本が立ち上がれば嶋本の胸のあたりにちょうどさとりの顔があった。
「進次?」
「ええから」
嶋本はゆったりと柔らかくさとりを抱きしめた。缶コーヒーを握ったままのさとりが慌てた。
「ちょっと、進次って」
「黙っとれ」
ここが水族館で、巨大水槽の前で、魚どころか小さなお子様が不思議そうに見つめるのを困った母親が見ちゃいけません!と叱責しながら手をひきずるのが見えても、嶋本は決してさとりを離さず。
静かに言った。
「逃げても、ええんやないか?」
「え?」
「ちょっとやったら逃げてもええ。ただちゃんと戻って向き合えればええんやと、俺は思う」
「………進次」
嶋本は少しだけ腕の力を緩めて、さとりの顔を覗き込んだ。さとりは驚きからか、既に涙は止まっていた。
「おまえはまっすぐに向き合うてきたんやろ、今まで? ほんの少しでも寄り道しても、立ち止まってもええやないか」
去年、嶋本は過酷な訓練を受けた。その締めくくりで、100キロをひたすら羽田を目指して歩く訓練で、ただがむしゃらに前に向かうだけでは手に入らないもの、気づかないものがあることに気づいた。
普段と違う、自分を見た気がした。
だから、さとりにもそんな『余裕』を持たせてやりたかった。
「休みも必要や。さぼりもちっとは必要や……ええか、さとり。俺は自分のお休みどころはお前やと思うてる」
嶋本は穏やかに、だが満面の微笑で言った。
「これからもずっと、ずっとな」
「………え?」
さとりが言われた言葉の意味を捉えかねている間に、嶋本は手を放して、自分のポケットをまさぐりながら、さとりに言った。
「ほら、手え出せ」
「手?」
促されるまま、さとりが両手を差し出すと、嶋本はその上に何かを置いた。
決して重くはないけれど、さとりの掌に収まるほどの、白い箱。
さとりが嶋本の顔を見上げれば嶋本は苦笑しながら、
「開いてみい」
「……なに?」
「開けたらわかるやろ」
箱を開ければ、エンジ色のビロードのケースが入っていて。
さとりはそれをゆっくりと開けて。
小さな声で思わず言った。
「これって」
「給料3カ月分って言うらしいけどな。ちっと足らんかもしれんけど。お前、ダイヤの太さよりデザイン重視やって言うてたからな」
照れくさそうに鼻を撫でる嶋本をさとりが見上げながら言う。
「進次」
「あ?」
「ありがと」
「おう」
「………それと、確認するみたく悪いけど」
「なんや?」
「今のって、プロポーズ?」
「……………………聞こえんかったんか?」
「ううん」
指輪を出して、眺めていたさとりは嶋本に指輪を渡す。
「あ?」
「はめて」
「……そりゃえいけど、お前、さっきの、その……答えは?」
指輪を薬指にはめられて、そのフィット感に満足して、さとりは満面の笑みをたたえて。
「ん?」
「………もうえいわ。いつでもえいから返事くれ」
「返事はあげたよ」
さとりのさらりとした答えに、嶋本は顔を上げて、数回瞬きして。
「今の、か?」
「うん。あたしは進次に指輪をはめてもらうときは、あたしが結婚するときって決めてたの」
蒼い水槽の前で、さとりは笑んで。
嶋本に言った。
「幸せに、なろうね」