014 夜の狭間で





電話を、した。
2ヶ月ぶりの、姉との電話だった。
『あれ、さとり? どうしたの? なんかあった?』
「……姉さん、なんかないと電話したらあかんの?」
あははと笑う姉・ひかりの声と、にぎやかな子供たちの声も受話器越しに聞こえてきた。
『そんだけさとりが連絡して来おへんからやろ』
「まあ………」
それもそうだ。先々月連絡したのも、祖父の13回忌の相談でかけただけ。
とはいえ、ひかりからの連絡は多いのだ。多いときで週に2度3度と携帯を鳴らす。実の妹が小児科医というのが、子育て真っ最中の主婦には心強いようで、何かにつけてさとりに子供の変化の理由をといただす。
『今のところ、うちの子どもたち元気よ?』
「そう、ならよかった。じゃなくて、それで電話したんじゃないって」
『わかってるよ。なにか言いたいことがあったんでしょ』
さとりは小さくため息を吐いて、にぎやかなバックコーラスの流れる姉に言った。
「あたし、結婚決めたから」
『…………え?』
それは長すぎる沈黙だった。
そしてやがて、とんでもない声の洪水がさとりを襲う。
『えええええええええ〜〜〜〜〜〜〜!!! け、け、け、けっこ………』
『あれ、母ちゃんひっくりかえった』
『なにしてんの? 誰からの電話? あれ、さとりおばちゃんからやん』
『さとりが、さとりが……』
『かあさん、ぴくぴくしてんで? さとおばちゃん、何言うたの?』
さとりは小さくため息を吐いて、受話器に語りかける。
「美晴、嘉樹。聞こえてる?」
『ん? さとおばちゃん、かあさんどうかしたん?』
電話に出たのは、長男の嘉樹だった。さとりはもう一度ため息を吐いてから、
「嘉樹。かあさんが元気出たら、もう一度携帯に電話くれるように伝えてくれる?」
『それはええけど……なんかあったん?』
「たいしたことはないんよ。ただ、結婚するって言っただけ。じゃあね』
『ふうん、結婚。え?』
関西人らしい反応を受話ボタンを切りながら聞いて、さとりは思わずつぶやいた。
「あたしが結婚するのが、そんなに珍しいん?」



「え、結婚?」
「ん〜、具体的なことは何一つ決まってないけど、そのつもり」
「へえ……そうか、思いきったな」
くわえタバコのまま話を返してきたのは、同じ医師で同期である戸内直治だった。
「それって、あれか。海保の人だったっけ?」
「そう」
「言うたらあかんやろうけど………氷野よりも、ずいぶん背低い人やったやろ?」
さとりは苦笑しながら、決しておいしいとはいえないコーヒーを味気ない紙コップに入れて、戸内に差し出した。戸内は一言礼を言って受け取る。さとりはソファに座りながら、
「15センチは違うかな…いうても、あたしが高いからね」
「まあ」
戸内はコーヒーを口に運びながら、肩をすくめた。
「氷野が選んだ人、やしな」



『さとりが選んだ人、やしね』
姉も同じ言葉を言った。
それがどういう思惑で紡がれた言葉か、さとり歯考えたくなかった。
誰もが、『もったいない』という意味で言うのだ。
医師であることを、さとりが擲つのだと、信じている。
だが、さとりはそんなことを考えたことなどなく。
嶋本もそんなことを望んだことなど一度もないのに。



「医者は……辞めないよ」
「ん?」
さとりの小さな声に、戸内は顔を上げた。
さとりはゆっくりと立ち上がり、戸内を見下ろしながら言った。
「医者は、辞めないよ」
「…………そうか」
「うん」



辞めない。
この仕事が、好き。
この仕事こそが、自分を、氷野さとりという個性を際立たせるモノ。
この仕事でこそ、自分は多くの人の生命を助けられる。
辞めない。
ずっと、続けていく。




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