015 暗い廊下





小さなミスだった。
だがその小さなミスが、生死に関わることを嶋本は知っている。
それは、嶋本の小さな体に深く刻まれた思いに背を向けてしまう行為だった。
だけども、小さなミス。
ミスというより、嶋本の過大な自信から生まれた欺瞞だった。
自分が助けることができると、思った。
保大を出て、まだ半年。
だけど、自分は自分の能力を最大限に生かして海上保安官としての任務に就いていると自負していた。
誰もがそれを認め、嶋本はそうあるべきで、期待にこたえるのが当然、と信じていた。
だが。
今の状態は何を意味するのか。
『やめえ! 嶋本!!』
止めたのは、船長だった。
だが事故は起きた。
少女の怪我は、嶋本の所為ではないけれど、重傷。
そして結果的に救助が遅れた仲間の潜水士の怪我は、同じく重傷。
命に関わるものではない。
そう長身の女医に告げられても、嶋本の俯いたままの顔は上がらなかった。



さとりはついと振り返った。
暗い、廊下。
経費削減か、夜勤の時の廊下が明るいな、と感じたことなどないことを思い出して、5年前、そんな暗い廊下で力なく項垂れていた小さな体を思い出して、さとりは小さく微苦笑する。
初めて、嶋本進次に会ったのは診察室だった。
搬送されてきた一家。
ヨットに乗っていて、転覆したのだという。
捜索にあたっていた海上保安庁の保安官が救助して、ヘリに乗せた。それまではさとりも何度か経験している。
だが、ヘリに乗っていたのは一家と少女と、そして重傷の保安官で。『海上保安庁』のウェットスーツを着ていることから、さとりも彼が保安官であることを知った。
医師である以上、疑問の前に治療を行う。
それが鉄則で、さとりもそのとおりに動いた。
やがて訪れた上司だという数名に、状態を説明した。
重傷であるけれど、命に関わるものではない。
喜ぶというより、数名は診察室の入り口で呆然と立ち尽くす背の低い保安官に視線を向けて。
『ここまで重傷にならんでえい、怪我だったな』
『津野は黙ってろ』
一番高齢らしい保安官が咎めると、彼らは入り口にいる保安官の肩をわざと掠めるようにして、姿を消した。
『すんません、船長』
『謝るなら』
船長と呼ばれた高齢の保安官は背の低い保安官の肩を、ぽんとたたいて勤めて明るく言った。
『謝るなら、曽田に言え。俺じゃない』
何かあったのだろう、と思った。
だがこれ以上はさとりの職域を越える。
項垂れて、肩を落とす小さな保安官が悄然と診察室を出て行くのをさとりは横目で見ながら、高齢の保安官に病状や入院についてなどを説明した。
『先生』
『はい』
『どうか、怪我をしたお子さんのこと……それから曽田のこと、よろしうお願いします』
深深と頭を下げた、今となってはその高齢の保安官が神戸保安部所属の巡視船の船長である麻前哲雄であることを知っている、彼の白髪頭を見ながらさとりは力強く頷いて言った。
『尽力させていただきます』



暗い廊下。
診療室のドアの両脇には長ベンチが置かれているけれど、それ以外にはベンチを置かないのが病院の方針だった。
歩行が難しい患者のために設置された手すりが延々と続いている。ベンチがあれば、手すりの意味がなくなるからだ。
夜半を過ぎて、照明は最低限にまで落とされ、わずかにかがやくのは頭上の緑の非常灯と、足元のわずかな照明だった。
さとりは宿直室に常時暖められているコーヒーではなく、総合待合ホールに置かれた自販機のコーヒーを買おうと宿直室を出た。
長い廊下は、暗く。
だがその暗さは決して恐怖を含有するものではなかった。
さとりは肩にかけた聴診器を、白衣のポケットにしまい廊下を歩く。
こういうとき、さとりの履いているスニーカーはほとんど音を立てない。だから、廊下の中央、手すりの下で小さくなっていた人物が慌てて顔を上げたのは、さとりがすぐ近くに来てからで。
さとりもその人物が動いたことで初めて人がいることに気づいて、飛び上がった。
『び、びっくりした!』
『あ、すんません……』
どうやらベンチではなく手すりの下で座り込んでいたようで。濃紺の制服が、先ほどの海上保安官の一人だったことをさとりに思い出させ、そして一人非難を受けていた背の低い保安官だったことにさとりは思い出して。
思わず声をあげた。
『あの』
『え?』
『よかったら、コーヒーでも………どうですか?』




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