嶋本は小さくため息をついて。
手の中のメモをもう一度見やってから、空を見上げた。
「………なんでや、俺」
なんでや。
なんで、あんとき、あんなに積極的になった? 俺?
どんよりと曇った空は、天気の悪さか、大都市のスモッグか。
「よし」
さとりが満面の笑みで見ていたのは、一日がかりで掃除した自分の部屋だった。
今年医師免許を取得したばかりのさとりの立場は、研修医。
大学付属病院の小児科に所属しているが、病院の方針では研修医の間はさまざまな部署で研修を行い、半年ほどしてから本来の所属部署ともう一箇所に「研修所属」することになっている。
さとりの所属は、救急外来。
いわゆる、ER。
週5日、小児科で研修を行い、週3日のER夜勤勤務。
忙しすぎる。
自分の部屋の掃除すらままならない。
「は〜、燃えないごみが5袋出るって、あたし、掃除できない女みたいじゃない」
深いため息。
なんだか乾燥している目に、目薬ささないといけないなぁと思いながら、さとりは掃除道具を片付ける。
そしてふとリビングテーブルの上に広げられた医学書と、その医学書にはさまれたしおりを思い出した。
「そうだ」
さとりがしおりに触りながら、医学書を開けばしおりが姿を見せる。
それはしおりではなく。
1週間前に、ある青年から渡された電話番号のメモだった。
「は? お前、それで電話してないって?」
「………」
言葉はなく、嶋本が力なく頷いたことで、曽田は深いため息をついた。
「あんなぁ………お前のその突然の行動力にもびびるけど、それをなぜ最後までつきぬけんのか、俺はそっちの方が気になるわ。普通は電話するやろ。電話番号教えてくださいって言うたん、お前なんやろ」
「そやかて」
「言い訳はきかん」
びしりと告げられて、嶋本は言葉を飲み込んだ。
曽田はぺしんぺしんと嶋本の頭を叩きながら、
「最初の行動は合格点やな。ちゃんと電話番号も聞けた。やけど、なんでそこで終わる? つきぬけんかい、お前みたいなコロボックル、機動力で勝負せんでなんで勝負するんや」
「う………」
嶋本のミスで救助が遅れたことで、曽田の入院は少しだけ長引いていた。それでもあさってには退院できるという。
巡視船の中でもっと年齢が近く、嶋本を可愛がってくれる曽田を嶋本は尊敬していた。
勤務が終われば毎日見舞いに訪れている。
退院も近いことで、ある程度自力で動けるようになった曽田が炭酸飲料を買おうと総合待合ホールまで降りてきて、見つけた嶋本はあちらこちらを誰かを探すように覗いて。曽田が声をかけると、飛び上がるように驚いた。その様子に何かあると曽田が問い詰めれば、顔を真っ赤にしながら告白したのだ。
『ここの女医さんと話して……その、電話番号教えてもらうたんですけど……まだ電話してないんです』
彼女は一瞬きょとんとした表情を浮かべて、すぐに微笑んで。
胸ポケットから出したメモ帳に何かを書き付けて、一枚だけ破り、嶋本に渡した。
『どうぞ。私の電話番号です。いつでもつながります。もし出なかったら、留守電に入れてください。必ずかけなおしますから』
自分よりもかなり背の高い、彼女は穏やかに微笑みながら、
『いつでもいいですよ』
「ここの女医さんやったんやろ?」
「え、はい」
「なら、氷野先生か」
突然名前を言い当てられて、嶋本は思わず赤面してどぎまぎする。
「な、なんで」
「あんなぁ……時々顔を覗きにきてくれる最初の担当医のことぐらい、俺でもわかるわ」
曽田は鼻で笑って、赤い嶋本の顔を覗き込んで、
「氷野先生ねぇ………ふ〜ん、コロボックルとねぇ」
「だから曽田さん、俺はコロボックルじゃあないですよ」
「じゃあ、キジムナー。どっちもちびっこい妖怪だけどな、お前が好きなほうでいいよ。ちなみにコロボックルの方がおとなしいらしいけどな」
飄々と妖怪博士な曽田の言葉に、嶋本は言葉を呑んだ。曽田はそんな嶋本をじっと凝視して、小さく言った。
「まあ、お前が決めることやけどな」
「曾田さん」
「ともかくだ」
にんまりと笑って、曽田は嶋本の肩をつかんで言った。
「一度電話しろ。いいな」
「……はい」