『俺の、ミスなんです』
渡された紙コップを、暖かさを楽しむわけではなく、ただ強く握る、嶋本と名乗った保安官の手元だけをみつめていたさとりは、手にしていた紙コップを口に運んだ。
『俺があんなことせんかったら』
『……ああしておけば、こうしておけば』
『え?』
不意のさとりの言葉に、うなだれていた嶋本が顔を上げた。さとりはかなり熱いコーヒーを少し無理しながら飲み込んで、再び声を上げた。
『後悔してるんですね?』
『そりゃ、もちろん』
『もうしないって?』
『あたりまえです』
顔をのぞきこめば、嶋本の顔は力強い決意で満ちていて。さとりは一度小さく頷いて、
『じゃあ、いいんじゃないですか』
『………は?』
あっさりと告げられた言葉に、嶋本は驚いたように対面に座ったさとりを見上げた。
そして初めて、自分にコーヒーをおごってくれた女医の顔を見つめた。
美人、だろう。
おそらくは。
嶋本が実際にあった女性の中では、美人の部類に入る。
薄い唇が、言葉を紡ぐ。
『もうしないと、反省する。しないと努力する。後悔していることよりも、そちらの方が大事でしょう……とはいえ、これは私が言うことで、嶋本さんが開き直って言ってしまえば、それはそれで問題になるとは思いますが』
………えっと』
さとりは一口二口、コーヒーを飲んで、顔を上げた。
ほとんどわからないほどの薄いオレンジピンクのルージュ。
なんだか目が離せなくなって、嶋本は言葉を失う。嶋本の変わりにさとりが雄弁になった。
『嶋本さんがどんなミスをしたのか、私にはわからないけど。それはそちらでの話だから。でも、曽田さん? の状態は、決してひどいものじゃない。もちろん怪我にはかわりないけども。早ければ1週間ほどで退院できるから』
『…………』
『同じ、命の現場にいる者としていえることは少しくらいはあると思うけど。そう、私が今言えることなんて………』
さとりは穏やかに微笑んでみせて、
『後悔することは大事。でも、繰り返してはダメ。私たちは一瞬で判断して、命を救うことが求められているのだから』
『………そう、ですね』
『とはいえ』
空になった紙コップをくしゃりと握りつぶして、さとりは立ち上がった。
『研修医の分際でえらそうに言ったけどね』
ぺろりと舌を出して、さとりは肩を竦めた。
『さて、帰らないと。ゆっくり…できそうなら、ゆっくりしていってくださいね』
『あ、あの!』
慌てて立ち上がった嶋本が言った。
『あの、よかったら電話番号、教えてもらえませんか?』
『ん?』
さとりは一瞬なにを言われたのか理解できなかったけれど、でもすぐに微笑んで。
胸ポケットから出したメモ帳に何かを書き付けて、一枚だけ破り、嶋本に渡した。
『どうぞ。私の電話番号です。いつでもつながります。もし出なかったら、留守電に入れてください。必ずかけなおしますから』
嶋本は渡されたメモをまじまじと見つめて、ようやく笑顔で頷いた。
『はい』
『いつでもいいですよ』
『あ、そうや!』
嶋本も慌ててポケットを探って、メモ帳を出して自分の電話番号を書き付けて、さとりに渡した。
『これ、俺の番号です』
『ええ。いただいておきます』
そしてさとりは白衣をひるがえして、総合待合ホールを後にした。
闇の中に白衣が見えなくなって、嶋本は魂抜けするほど深いため息を吐いて、ソファに座り込み。
手にしたメモを見つめる。
携帯電話の番号と。
氷野さとり、という名前。
嶋本は、コーヒーを一口飲んで、つぶやいた。
『氷野、さとり……』
診察室に入ろうとしながら、さとりは聴診器をポケットから出そうとして、同時にポケットから何か落としたこと気づいて、慌てて拾う。
小さなメモだった。
携帯電話の番号と。
嶋本進次、という名前。
さとりは小さく微笑んで、そのメモを再びポケットに戻した。