018 小児科のラブ





数回呼び出し音が鳴って、不意に切れた。
嶋本は慌てて、声をあげた。
「も、もしもし!」
とってつけたような女性の声が響いた。それは嶋本も聞きなれたものだった。
ただいま電話に出ることができません、メッセージをお願いします。
嶋本は安堵半分、落胆半分のため息をついて。発信音を待って、メッセージを残した。



嶋本です。
連絡が遅くなって、すんません。
あの、もしよかったら食事とか、どうですか?
休み、合わせるんで…連絡待ってます。



手の中で温まった聴診器を小さな小さな胸に当てると、幼子はわずかにむずがった。
一瞬目を閉じて、耳からの情報に耳を澄ませたさとりだったけれど、すぐに笑顔を母親に向けた。
「はい、もういいですよ」
ぐずぐずしている我が子に服を着せるのに忙しい母親を待つ間に、さとりはパソコンの電子カルテに書き込みを入れていく。
「先生……」
「経過はいいですよ。抗生物質が効きましたね。もう少し抗生物質入れないといけないかと思ってたけど…これなら大丈夫、咳止めだけにしましょう」
さとりが満面の笑みで微笑むと、幾分こわばっていた母親の表情も解けた。それを感じたのか母親のひざの上に座っていた幼子も笑顔になる。
「ありがとうございます」
「いいえ。よくがんばったね」
さとりが幼子の頭を撫でると、幼子はきゃきゃと声をあげて笑った。
礼を言いながら母親が診察室を出て行くと、代わりに入ってきた看護師の田辺紗和子が笑顔で言った。
「氷野先生、今日の診察はこれでおしまいです」
「あらら、思った以上に早かったわね」
ちらりと見上げた壁掛け時計は診療時間を1時間ほど過ぎたところ。
時と場合によるけれど、4時間過ぎてもまだ待合に診察を待つ患者たちがあふれていることもあるのに。
「季節がいいからですかね」
「ああ、そうかも」
ほけ〜と答えて、さとりは立ち上がりながら腕を振る。
「ん〜、やっぱり診察してると肩がこる…」
「ずっと同じ姿勢だからでしょうね」
片付けを始めた看護師の與井悦子も微笑みながら、さとりに言った。
「氷野先生、最近人気急上昇なんですよ。研修医の先生に指名かける患者さんなんて今までいなかったのに」
「え? 指名?」
さとりが振り返ると、片付けしている看護士全員が頷いた。
「ええ」
「さと先生がえい〜、って安眞木先生に泣いた子供もいるくらい」
「げ、安眞木先生…」
小児科副長の安眞木の評判は悪くない。だが、子供は正直だ。何が原因かはわからないけれど、素直に言ってしまったのだろう。
「大丈夫ですよ、安眞木先生はそんなことで氷野先生のこと、悪く思ったりしませんから。ま、違う科ではありますけどね」
さりげなく毒を吐いた田辺紗和子の言葉に、さとりは少しだけ安心して。
「そ、そうなんだ」
「今日はERもないんですよね」
「うん。早く帰ろうと思って……」
「じゃあ、今のうちですよ」
さとりは同姓ということもあって、看護師たちに気に入られている。その穏やかな気性と、大人であれ子供であれ患者に接する穏やかで平等な態度を看護師たちは評価しているからなおのこと、姉妹のような親近感を持っているのかもしれない。
早く帰れと促されて、満面の笑みを浮かべて控え室に向かったさとりの後姿をちらりと見送って、與井悦子は思わず苦笑しながら言った。
「氷野先生って、なんだか憎めないのよねぇ」
「そうそう、腕もいいんだけど、何よりね」
「うん。なんかあの……」
ちらりと全員が田辺紗和子を見た。田辺紗和子は驚いたように顔をあげて。
「え?」
「紗和子が言ったんでしょ、氷野先生のあだ名」
「………渾名になったの? あれ?」
「もちろん本人には言わないわよ。いえないわよ」
ラブラドール・レトリバー、略してラブ。
「小児科のラブ、なんていえるはずないじゃない」
女性にしては長身。
その人懐っこさ。
それゆえに、田辺紗和子が思わず言った言葉。
ラブラドール・レトリバー、みたいじゃない?
可愛いけれど、決して看護師以外には言えない、渾名だった。
看護師一同の嘆息を、控え室のさとりは知らず。
そして、携帯電話に残された留守番メッセージを聞くのだった。




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