生きて帰る。
それが、俺たちの、海上保安官の、潜水士の、鉄則だ。
それができないのなら……。
できないのなら。
嶋本は、最近塗り替えられたばかりの壁に、拳を打ちつけた。
ずんと、低い音が響いて。
痛かったのは、拳じゃない。
痛かったのは、心だった。
心が納得いかないと、叫んでいた。
シマ、俺が先にトッキュー隊行くから、お前はのんびり来いや。
え〜、俺も行きますよ、曽田さん。必ず潜水士になって、トッキューに行きますよ。
よう言うたな、お前みたいなコロボックル、誰が拾うてくれるか!
なまじ優秀で、保大卒で、その上思ったままを口にする嶋本が一部の保安官に嫌われるのは早かった。
そして嫌われるのと速度を同じするように、曽田との距離は近くなった。
嶋本にとって曽田は、先輩であり、友人であり、同僚であり、進むべき目標だった。
「曽田さん!」
「あ〜、お前はホンマうるさい」
うざったそうに手をひらひらとさせながら曽田は嶋本の横を通り抜けて。
立ち止まって振り返りながら、笑った。
「あ、お前。呉行き、決まったんやってな。よかったやん。氷野先生も喜んだろ?」
「……曽田さん」
「あの先生、ホンマええ子やわ。お前にもったいないわ。医者の癖に、患者の親身になって考えすぎ。ま〜、そこがええところやけどな」
おどけたようで、ひらりと手をあげた曽田が背中を向ける。
嶋本は思わず、叫んだ。
「やめんといてください!」
「あ?」
「……やめんといて、ください……」
一瞬の沈黙のあと、曽田がわざとらしく大きなため息を吐いて。
「あほか」
「曽田さん」
俯けば、涙がこぼれそうだった。
曽田はそんな嶋本を見つめて言った。
「お前も、潜水士目指してきたんやったら、わかるやろ。生きて帰ることが、俺らの最終的な目標で、鉄則や。それができんかもしれん要因をもっとるやつは……現場におっても、足引っ張るだけや」
「曽田さん」
「俺は現場で死ぬわけにはいかん」
「曽田さん!」
「死ねんのや!」
曽田の握られた拳は、自らの胸をドスンと打った。
厚いはずの胸板が、それを押し返し。
曽田は小さな声で繰り返した。
「俺は……死ねんのや……」
「曽田さん……」
港特有の幾分淀んだ潮の香りが、さとりの鼻をくすぐった。
さとりはタクシーを降り、あたりを見回した。
初めて来る場所だったが、何度も嶋本から聞かされていたからタクシーの運転手に場所を説明するにも迷いはなかった。
巡視船が停泊している突堤は、ほとんど関係者以外立ち入り禁止になっていない。
立ち入り禁止なのは、最後の部分、巡視船に乗り込む艀からで、そこには普段扉が閉められていると嶋本は言った。
勤務を終えて、さとりは迷うことなく突堤にタクシーを向かわせた。
夕方、電話で思わず告げてしまった『曽田の事実』。
途中で切れてしまって、それ以来嶋本からの連絡がない。
曽田と別れる間際、曽田が思い出したように言った。
『そや、先生。このこと、嶋本に教えてやってください』
『え?』
『俺の口からは…言いにくいかな……』
だから言われるままに、告げた事実だったけれど。
考え直せば、嶋本にとってどれほど重い事実だったのだろう。
だからこそ、電話がないことが気になり、さとりは突堤を目指した。
巡視船は夕闇の中で、晧晧と明かりをつけていた。
その手前、突堤の先端で見慣れた小さな背中をみつけて、さとりは小さく息を吐く。
嶋本が、座っていた。