仙台と大阪では、気温も湿度も違う。
あたりまえだが、それで体調を崩す者もいる。
五十嵐恵子もその一人だった。
ぐずりと鼻をすすって、自分の額を触ってみればいつも以上の熱の高さに五十嵐は歯噛みしたい気分だった。
仙台航空基地で3年。
そして今年、関西空港保安航空基地に移動になって数ヶ月。
順調に、至極順調に任務を遂行していたのだが…。
今朝になって、出動から帰ってくる機動救難隊員に声をかけられた。
松永紘一という救急救命士の資格も持つキッキュー隊員はまじまじと五十嵐の顔を見て。
『熱、ありますよね? 風邪かな? お医者行った方がいいですよ』
と京阪大学付属病院を教えてくれたのだ。
場所は知っていた。
けれども、勤務が終わって五十嵐は病院に行かなかった。
理由はひとつ。
空からの行き方は知っていたけれど、陸からの行き方を知らなかったから。
結局高熱と悪寒の中、夜中のタクシーに乗り込まなくてはならなくなった。
救急外来は閑散としていた。
五十嵐は渡された体温計を脇にはさみながら、そういえば外来まで顔を出すことなんてなかったな、と思い立つ。
屋上のヘリポートにはよく仕事で下りるけど、それ以上は病院スタッフが要救助者を運んでくれる。五十嵐はすぐに機体を次の海難現場か、航空基地に向かわせればいいのだから。
ご機嫌ななめの幼子の、細い鳴き声が響いていた。
男性の声が聞こえている。死んでやるだの、メスを寄越せだの騒いでいる。
ぴぴっ。
小さな音で検温が終わったことに気づいた看護師が笑顔で五十嵐の体温計を受け取った。
「……にぎやかですね」
「ええ。いつものことですよ。今日は静かなほうですよ」
そうなのかと納得すると、待合室に男の声が響いた。
「ここで死ぬんだ〜!」
「ちょっと、佐藤さん!」
「死んでもいいけど、ここで死んでも何も楽しいことないよ?」
静かな声に、五十嵐は顔を上げた。
制止する声も聞こえるが、診察室の入り口で後ずさりながら出てくる男の後姿が見えた。
静かな声は中から聞こえていた。
女性の声。
穏やかに。
そして冷静な声が静まり返った待合に響いた。
「ここで死んでも、きっと佐藤さんには何が残るの? 佐藤さん、誰かに何かを伝えなくていいの? ここで死んでも、誰にも伝わらないよ? 明日の朝、新聞の片隅で病院外来で自殺者って小さな記事になるだけ。そこには佐藤さんの思いも、伝えたいことも乗らないんだよ? それでもいい?」
かららん。
何か金属を落とす音が聞こえて、小さなひそやかなため息がそこかしこでもれた。
そして、看護師の声が誰かを呼んだ。
「氷野先生〜」
「ん、今行きます」
応えた声は諭した声で。
五十嵐は熱っぽい頭で、記憶した。
氷野、という医師の名前を。
診察室の前室に呼び込まれた五十嵐は項垂れて点滴を受けている男を見かけた。看護師が佐藤と呼びかけたことで、五十嵐はその男性が自殺すると騒いでいた男性だと気づいた。
カーテンひとつで区切られた診察室からは、なにやらヒステリックな声が聞こえてくる。
話の内容からすれば、小さな我が子が夜中になれば嘔吐するという。そのたびに病院を変えてみたものの、医師の判断はどれも同じ。
同じ処方箋。
だが、息子はよくならない。
「先生、息子は、悪い病気なんですか!」
「……松浪さん。検査してみないとわからない……というのはどこの病院でもいわれましたね」
静かな声。
それは先ほどの自殺希望者をとどめた同じ声で、柔らかく母親を非難していた。
「ええ、でも」
「ごめんなさい。私たちは検査をしてみないと、それがどういう病気で、どういう治療方法が最善か、わかりません。失礼な言い方かもしれませんが……まだわからないんです」
「そんな」
いや、穏やかな声は至極真っ当な話をしているのだが、我が子の病気という緊急事態に、母親は我を忘れていた。
だが穏やかな声は、すぐに言葉を紡ぐ。
「松浪さん。大変でしたね、悠太郎くんが夜中になるたび、こんな症状が出ていれば……ゆっくり眠れなかったでしょう?」
「え? あ、はい……」
「今日は入院しましょう。いえいえ、病状観察のためです。ですから、松波さんはお帰りになって、明日の朝7時以降においでになってください。うちは完全介護ですから……検査入院は3日ほどですから、今夜ゆっくり眠って、明日もう一度おいでてください」
「先生……」
「そうしましょうね」
穏やかな、優しい声。
五十嵐はこほんと咳をひとつした。
医師の声は続く。
「悠太郎くん、おいで。うん、お薬しようね。痛くないよ〜、飲むお薬だから。ぐっすり眠って、明日お母さんと一緒に病院の探検をしようね」
「探検?」
「うん、探検」
「する」
「そう、じゃあお薬飲もうね」
静かで穏やかな声は、五十嵐の耳にも優しく届いた。