青年が吐いた息の白さが、夏から秋への季節の移ろいをしめしていた。
「おい、風邪引くぞ」
声をかけられて、青年はふりかえった。
羽田特殊救難基地と書かれたすぐ脇では、事務室の明りが煌々とついている。
出入り口で誰かが仁王立ちをしているのが見えた。だが、明りゆえに逆光になり、誰かはわからない。
とはいえ、当直の誰か、それもこんな夜中に起きだしてくるのは自分と交替する予定だった人物しかいなかった。
「すぐ着替えます」
「どれくらい走ったんだよ」
「………20周くらいでしょうか」
「真田」
咎めるような口調で、古藤隊長が出入り口に帰ってきた真田の肩を軽くたたいた。
「お前は」
「すみません」
封じるように先に謝ってしまう、真田に古藤は微苦笑で応えた。
「まあいいがな。さっさと着替えて来い。夜食でも食って、寝ろ」
「はい」
淡々とした真田の後姿を見やって、古藤は今度こそため息を吐いた。
どうにも扱いづらい、新人だった。潜水士研修、そして特救隊入隊と、最速で駆け上がってきた、これ以上とはない戦力のはずだ。
だが、なんとも扱いづらい。
なんと表現していいのかわからないが、なんだか人間の気配を感じさせないときがある。
先週、そんな真田が言い出したこと。
『休暇をいただけませんか』
『それはかまわないが……どうかしたのか?』
『潜水同期が怪我をしたそうなので、見舞いに行きたいんです』
あまりにも人間的な言葉に、古藤は数回瞬きをして、真田の背中をバンバンとたたいて送り出した。
だが。
何を期待していたわけでもないのに、帰って来た真田は佐世保の土産を基地に配って、なにやら沈んだまま、1週間が過ぎていた。
何があったのか、聞くつもりはなかった。
ただ、真田が聞いてほしいと手を差し伸べた時には、すぐに受け止めてやろうと思った。
それが真田甚を、3隊に加入させた自分の、古藤嘉治のできることだと思ったから。
汗で重たいTシャツを脱ぎ捨てた。
真田は小さく息を吐いて、洗面台で顔を洗った。
それでも真田は晴れない気分を、ぬぐいきれなかった。
甚、出てけ!!
搾り出すように告げられた一言に、自分は黙って従った。
一緒に見舞いに来ていた潜水同期が慰めてくれたけれど、真田は微苦笑して、坂崎への土産を頼むことしかできずに佐世保をあとにした。
顔をあげれば、鏡に映るのはいつもと同じ静かな表情の『真田甚』。
潜水同期の中で、自分とそれに続くほど優秀だった、坂崎太一郎。
怪我をした、という同期の電話に耳を疑った。それも、海難救助中の事故だという。
救助の状況を聞いて、真田はどうしても坂崎に問いたかった。
救助方法を。
だが、おそらくそれを口にすれば坂崎が怒るだろうとも、理解していた。
それをわかっていて、自分は口にしたはずなのに。
そして予想通り、坂崎の怒りは自分に向けられたのに。
自分は。
この胸の、つかえはなんだろう。
「お、ようやく来たか。夜食だ、ちっとつまめ」
古藤の言葉にうなずいて、真田は席についたものの、箸を持とうとはしなかった。上下関係など気にしない古藤は真田にミネラルウォーターを差し出す。
「これから寝るやつに、茶やらコーヒーはいかんな」
小さく頭を下げた真田は、書類を仕上げるためにパソコンに向かった古藤に声を上げた。
「隊長?」
「?」
「ひとつ、おうかがいしてもいいでしょうか」
古藤は椅子だけを回転させて真田に振り返った。
「どうした?」
「あの、特救隊のことではないんですが。ある潜水士の行った救助に、自分は疑問があり、それを指摘しました……なのに、疑問が解けません」
「……」
古藤は数回瞬きして。
思わず苦笑した。
「おい、ずいぶん話を端折っただろ」
「………」
「つまりこういうことか? そいつの救助の仕方にお前はほかの救助方法があったのではないかと、本人に聞いた。そうしたら本人は怒った……まあ、お前も怒らせることはある程度想像してたけど、一切答えが帰って来なかったということか」
「………はい」
古藤はもう一度苦笑してから、
「この前見舞いに行った、潜水同期のことか」
「はい」
この扱いづらい青年は、どこか飄々としすぎていて、人の気持ちを逆撫でしてしまうのだろう。それは少し前、3隊の中でもあったことだった。
古藤はまっすぐに真田を見て、低く言った。
「救助方法はごまんとある。俺たち特救隊は、最善の方法を選ばなくちゃいけない。それは…もちろん、わかっているだろうな」
「はい、もちろんです」
「だけどな、真田」
正しさだけでは、世界は動かない。
真田の片二重の双眸がゆっくりと見開かれる。
古藤は微笑を浮かべたまま、ゆっくりと立ち上がりながら真田に言った。
「こうあるべき、では世界は回らない。救助もだ。そこに潤滑油として必要なものはなんだか、わかるか? 真田」
「………わかりません…」
「少し考えてみろ」
真田が眉をひそめて必死に考えているのがわかったけれど、古藤は真田の方をぽんと叩いて。
「お前にそれがないなんて、俺は思ってない。誰だって持ってるんだ。ほんの少し、それに気づくには努力が必要なだけだな」
「隊長……」
「応えはいつでも聞いてやる」
応えは簡単。
だけど、真田がその簡単な答えに気づくのに、今しばらく時間を要することに、真田も、古藤も気づかなかった。