はぁ。
息を吹きかければ、少しだけ温まる指先。
だがせっかく温まっても、すぐに体温が奪われる。
さとりは軽く足踏みをしながらぼやいた。
「やっぱり、ダウンひっかけてくればよかったわね」
「ええ。でも、いつ来るか、わからんから」
看護師が続いてぼやいた。
消防本部から緊急入電があったのが5分前。心肺停止状態で担ぎ込まれる患者をすぐに受け入れられようにと、ER専用の入り口で待つのがいつもだった。
「おいおい、風邪、引くぞ」
しっかりとジャケットを羽織ながら出てきた端山重伍を少しばかり恨めしそうに見つめていた看護士が言う。
「端山先生……」
「田元さんも、なんか、羽織っておいでよ」
「でも」
「今入電したら、あと10分くらいかかるって。ごめんね。田元さんの分わかんなかったから、手近にあった氷野先生のダウンだけ持ってきたから」
差し出されたダウンを申し訳なく、いや、端山ではなく、看護士に申し訳なく受け取れば、看護士が苦笑しながら、外来に駆け戻っていく。
「すいません、端山先生」
「いや。しかし、氷野先生、君って、本当によく、続くよね」
少しずつ区切るように話すのは、癖だという。子供のころ、吃音がひどかったために残った癖で、聞き取りにくいことがあったら遠慮なく聞き返せと、初対面で言われた。
意思疎通は現場では最低限のネットワークだ、とも。
「私って、そんなに早めに逃げ出すと思われました?」
さとりが苦笑すれば、幾分冷たい風が吹いた。40代半ばという端山が肩をすくめながら、救急外来入り口を示す赤色回転灯を見上げた。
「いや。だが、女性で、これほどの、当直回数、なかなか、こなせないから」
「そうですね……」
「結婚、するつもりなら、少し考えたほうが、いい。相手の、男性が……」
その先をわざとらしく区切って、端山はにやりと笑った。
「ふりまわ、される」
「あ〜、それはそうかも」
さとりは端山とは違う、夜空を見上げた。
そして、今日から勤務地が変わった恋人のことを思い出す。
明日から、神戸や。
なあ、さとり。
俺、潜水士で頑張るからな。
「むしろ」
「ん?」
ネオンで星も月も、そして雲さえも確認できない空を見上げて。
さとりは微笑みながら、つぶやいた。
「むしろ……相手のほうが、私よりも大変ですよ。絶対、私が振り回されます」
笑顔で帰ってきた答えに、一瞬端山は瞠目して。
喉の奥でわずかに笑ってから、言った。
「君を、振り回すのか、君の彼氏は」
「ええ」
「……京阪大学病院、きっての、優秀な新人医師を、振り回す、男か。あって、みたいな」
そのとき、遠くで救急車のサイレンが聞こえた。