031 出会い





「嶋本、こっちも」
「おい、シマ!」
「はいはい、すぐ行きます! すぐやりますから、ちょっと待っとってくださいよ!」
悲鳴を上げたかったけれど、むしろうれしい悲鳴だった。
嶋本は額に浮く汗をぬぐいながら、ピッチャーにビールをなみなみと注いだ。



神戸保安部最大の巡視船に潜水士として乗船勤務になって2ヶ月。
もうすぐ年が変わろうとする頃だ。
嶋本が属する潜水班の班長の鷹野光が、突然陸上勤務に移ることになった。
『俺ももう年やからな』
笑う鷹野班長がまだ30代半ばであることで誰もが引きとめようとしたが、班長がぽろりと本音を告げたことで潜水班の誰もが言葉を飲み込んだ。
『女房が、病気やからな』
鷹野の妻が班長と同じ年で、しかもさとりが勤める京阪大学付属病院に入院していたのを嶋本は知っていた。さとりからは科が違うし、守秘義務があるから教えないと突っぱねられたけれど、潜水班の中では妻の病気が重篤で、余命を宣告されたのだとうわさで流れていた。
だが鷹野班長は多くを語らぬまま、巡視船を降りて陸上勤務に移る。
そんな班長のために、潜水班は「ささやかな」送別会を催した。
そう、ささやかな。
ただ、鷹野につながる保安官全員に「周知」として、送別会の場所・時刻が書かれたメールが今流行のチェーンメールのように怒濤の勢いで回された。
そして送別会を開いてみれば、結局居酒屋一軒、貸切にしないといけないほどの保安官が集まり。
一番下っ端の嶋本が、てんてこ舞いの店員に交じって、メニューを配り、ビールを注ぎ、つまみを出した。
「すんません、ほんま、手伝うてもろうて」
店員が汗を拭き拭き、嶋本に謝った。
「気にせんといてください。これって一番若いもんの仕事、らしいんで」
そう教えてくれたバディの鹿取の奇妙な笑いが少しは気になったけれど。
入り口が開くと嶋本は反射的に声をあげた。
「いらっしゃいま〜?」
ずらりと入ってきたのは、4人の男性と、一人の女性。
先頭が奥の座敷に座っていた鷹野班長に手を上げた。鷹野があわてて座敷から姿を見せた。
「よお、先に陸にあがってまうらしいな」
「わざわざすんません」
「なに言うてんねん。鷹野が特救隊におった頃からのつきあいやないか」
がははと豪快に笑う男性に、嶋本は見覚えがあった。
確か、関西空港航空保安基地のヘリ・パイロット、田所秀治だ。その後ろの男性も見覚えがあったが、たったひとり交じっている女性には見覚えがない。
航空基地の事務専門官やろか。
嶋本がまじまじとみつめているのに気づいたのか、女性がゆったりと嶋本を見た。
そして、視線が絡む。
先に行動を起こしたのは女性だった。
ゆったりと婉然たる微笑を浮かべられて、嶋本はあたふたと手にしていた取り皿を取り落としそうになった。
鷹野班長も田所の背後にいた女性が気になったようで声をあげた。
「田所さん、こちらの…」
「おう、そうだそうだ。紹介するのが遅れたわ。おい、五十嵐」
低い声に、静かな声で答えて、一歩前に進んだ女性はてきぱきと自己紹介をする。
「五十嵐恵子、と言います」
「五十嵐……」
鷹野が中空を一瞬見つめて、すぐに答えを見出して、田所に言った。
「もしかして、海保初めての女性ヘリパイ…?」
「お。さすがに班長は詳しいな。そや、関空に配属になったんやで。半年前やな」
田所の言葉に、五十嵐恵子は軽く頭を下げた。
「はい」
「なかなか、これがきれもんで。そのうえ、俺のダジャレにも抵抗できるしなぁ」
切れ長の眦を、思わず食い入るように見つめて。
嶋本は内心、すごいすごいと繰り返していた。
うちはじまって以来の女ヘリパイ?



彼女は座敷に通される前、もう一度嶋本を見て。
小さく笑んだ。
だが、ただそれだけ。
それだけの出会い、だった。




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