036 昔の男





「はじめまして、氷野さとりです」
深々と頭を下げた女性の、再びあげられた顔を、やはり古藤はまじまじとみつめてしまう。
誰か、に似ている。
自分にとって、とても身近な。
誰だろう?
そんな疑問を飲み込んで、古藤は言った。
「まさかこんなところにいるなんて思わなかったからな。デートの邪魔したみたいで悪かったな」
「え、いや、そんなことありませんて」
照れたように笑う嶋本の横で、『氷野さとり』はまっすぐに古藤を見詰めていた。古藤も思わず聞き返す。
「俺の顔に何かついてますか?」
「あの〜……もしかして、もしかしてなんですけど……正院ひかりって、覚えてます?」
「え?」
「京都の、橘華学院に通ってた」
一瞬にして、思い出す。
家はすぐ近くだった。
誰もが羨むような家庭だった正院家。
父親は医師をしていた正院ひかりは、
京都でも名門女子一貫校に通っていて、
初めて古藤嘉治がつきあってほしいと告白して、始めてつきあった少女だった。
そして、彼女がいつも連れていた小学生。
姉ほど飛びぬけて美人でもなく、とても引っ込み思案で古藤に懐くのに時間がかかった、ひかりの妹。
『さとり、ほら、嘉治くん来たよ』
懐いてしまえば、どちらが嘉治の恋人か分からないと母親が笑ったほど、古藤について離れなかった少女。



「さとり、ちゃん?」
「ええ。お久しぶりです、嘉治にいちゃん」
彼女はあのころと同じように、左の頬にだけ笑窪を作って、笑った。



一瞬話が見えなかった嶋本は、さとりからすぐ答えを聞いた。
「進次、ほら、前にあたしの昔のことを話したでしょ。京都で育った話。そのころに、お姉ちゃんとおつきあいしてたのが、嘉治にいちゃんだったのよ」
「あ、あの話」
嶋本が納得する。
そして古藤に言った。
「なんや、隊長がさとりの幼馴染やったやなんて、すっごい偶然ですね」
「そうか、嶋本がつきあっていたのはさとりちゃんだったのか…」
どうにもぬぐい切れない既知感が、ようやくほどけた瞬間だった。
古藤は満面の笑みを浮かべた。
「そうか」




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