038 人を助けたい





くわえた煙草の紫煙が潮風に乗って、あっという間に消えていく。
「煙草、吸うてはる……」
小さな声に振り返れば、嶋本がタオルを首にかけてぼんやりと古藤を見ていた。古藤は小さく笑って、
「いかんのか?」
「いえ、そんなことあらへんけど」
「そんなヘビースモーカーじゃない。時々だ。週に一箱ってとこか」
「へえ……」
吸い口を軽く指で跳ね上げれば、既に白くなった部分がさららと風に乗って消えていく。
「髪、乾かしたか。風邪引くぞ」
「隊長って、すっごく人の心配しはりますね」
「おうよ、俺は隊長だからな。部下の体調管理も仕事のうちだ」
というよりと、苦笑して嶋本が言う。
「性格じゃないですか? みんなになんていわれるか、知ってますか? お母さんですよ?」
「はは、それはいい」
大笑いしてみせて、古藤は嶋本を手招きする。促されるまま、古藤の隣に座った嶋本は自分より一回り大きな隊長を見上げた。
「なんですか?」
「なあ、嶋本はなんで潜水士になった?」
「へ?」
「なんでだ?」
「ありきたりですよ、俺の応え」
「おう」
嶋本はぽつりぽつりと言った。
「俺、巡視船で一緒やった先輩がすごいいい人で…その人が潜水士で、将来は特救隊にも行けるって言うくらいの人やったんです」
「憧れ、か」
頷いた嶋本の、しかし、その『先輩』が過去形になっていることに古藤の興味は移った。
「保安官、辞めたのか。その先輩は?」
「へ? あ、いや……オペ勤になったって」
一瞬辛そうな表情をしたので、何かあるとは思ったがそれ以上は追及しなかった。
「で?」
「え?」
「今は、どうなんだ? その人がいなくても、お前は潜水士だろ?」
「あ〜…」
そういう話の展開は、予想していなかった。嶋本は空を見上げる。
真っ黒い太平洋上の空。
月明かりが薄い雲の向こうで、申し訳なさそうに雲の形を示してくれる程度で。
「出動も、大してしてへんけど」
「出動回数が問題なんじゃない……いや、お前を問題にしたいわけではないがな」
むしろ、問題なのは自分かもしれないと、思う。
毎日毎日、本当に24時間、心を摩り減らす思いで羽田にいた。
責務と、誇りと。
だが巡視船に乗って1週間、1ヶ月と経つうちに、あまりの『平穏さ』に、少しだけだが苛立たしさを覚えた。
矛盾した自分の心に、腹が立った。
「自分が」
「ん?」
「自分が人を助けたいって心はあるのに、技術と、経験がまだ育ってない」
まるで何かを暗唱するような言い様に古藤は眉をひそめる。
「嶋本?」
「さとりの口癖なんですよ。今は技術と経験を育てる時期。それがいつまでだかわからないけれど……でも」
嶋本はにままと笑って。
「俺、人を助けたいですよ?」
「…………そうか」
「それじゃあ……理由になりませんか?」
心配そうに自分を覗き込む嶋本をにやりと笑って、まだ少しぬれている髪をくしゃりと撫でた。
「うわ」
「いっちょ前だな。合格だよ、嶋本。潜水士としても…さとりちゃんの男友達としても」
「……最後の、なんなんですか!」
「俺は、さとりちゃんのおにいちゃんなの。俺のメガネにかなわなきゃ」
古藤は鼻でふふんと笑って、
「お前なんて、さとりちゃんの彼氏として認めてやんない」
「…………なんか、むしょうにむかつんですけど」
「気にするな」
大笑いと、紫煙の香りと。
古藤は姿を消した。
あとに残された嶋本は思い切り眉をひそめて、つぶやいた。



「難敵登場?」




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