039 月の光





さとりは深くため息を吐きながら、ソファに座り込んだ。
今日も一日、激務だった。
ER勤務、小児科、ER勤務なんて、誰がシフトを組んだのかと腹立ちまみれに考えれば、意外にも自分で。
多分、休めないのをわかっていて、なら中途半端に帰宅するよりは忙しくしたほうがいいと、思ったことを思い出して。
「あ〜あ……あたしって、大馬鹿」
またまた溜息を吐き出しながら、さとりは重たい身体を引き起こし、ダイニングテーブルの上のリモコンを取った。すぐに、静かな調べが部屋を包み込んだ。



ピアノの、調べ。
ゆったりと、穏やかに、流れるように。
だが、耳に優しいその音。
囁くような、音。
さとりは目を閉じる。



幼い頃、この調べをよく聞いた。
母親が弾く、グランド・ピアノの下に潜り込んで、しかし優しい調べに、いつも小さな身体をいっそう小さく折り曲げて眠ってしまう。
そんなとき、いつも母親が弾いてくれたのが、ドビュッシーの『月の光』だった。



病床でも、小さなラジカセを枕もとに持ち込んで、母親はよくクラシックのテープを聞いていた。
自分が弾いた曲を録音したテープ、だったと思う。
父親の遭難を聞いたときも、訃報を聞いたときも、確かこの曲が静かに流れていた。



さとり、父さんが言ってくれたのよ。
君の弾く『月の光』はすごく、優しく聞こえるねって。
だから、母さんはこの曲がすごく好きなの。



痩せ衰えた指は、空中でピアノを弾くように踊っていた。



母の弾くピアノのテープは、幾分音が変質してしまったけれど、少し前にCDに録音しなおされて、姉がさとりに届けてくれた。
時折聞くピアノの調べは、決してプロのピアニストに勝てるようなものではないけれど。
さとりにとっては、『月の光』は母の調べだった。
ダイニングテーブルに広げられた、アルバム。
開かれた最後のページには、写真いっぱいに写された、雲海。
朝焼けか、夕焼けかわからないけれど、光に彩られた輝きを受ける雲を眼下に見下ろすもの。
病室で待つ母に、父はその風景を届けたくて。
そして、二度と母の『月の光』を聞くことはなかった。



今日は、父が遭難したらしい、と連絡を受けた日。
今から18年も昔の話。
なのに、忘れられない悲しい、過去。
さとりは『月の光』を聴きながら、目を閉じた。



ごめん、ね。



それは誰に謝られたものだったのか、さとり自身も思い至らぬまま、そのまま眠りについた。




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