042 医師・氷野さとり





まさか、ここにさとりが来るなんて。
嶋本は呆気に取られて、医療室に入って行く白衣のさとりを見つめていた。



少し時間を戻る。
艦橋にいた古藤は、慌しくやりとりを繰り返す通信士の松永の背中を見ていた。
松永がはじかれたように振りかえる。
「船長!」
「どうした?」
「京阪大病院に要救助者を搬送していたヘリに、医師と看護師を同乗させたそうです。緊急の治療を必要であれば巡視船で行うようにと、本部からの指令です」
竹村船長は思案するように眉をひそめたが、それも一瞬。
「よし、出来る限り凪いでいる場所を探せ。治療するにしても、揺れていてはなんともならんだろうからな。ヘリには逐一連絡を」
「はい!」
「古藤隊長は、待機。まだ要救助者全員の身元確認が済んでいない」
「わかりました」
ミーティングルームに戻ろうとする古藤の耳に、松永通信士と竹村船長の会話が聞こえた。
「医師は誰だ?」
「氷野医師です。小児科専門の救急医だとか」
古藤の足が止まった。慌てて振り返り、二人の話に割り込む。
「それって、氷野さとりですか?」
「古藤隊長、知り合いですか?」
「え、ええ…幼馴染です」



小さく狭い医療室は、かなり惨状を見せていた。
狭い部屋に2つの医療用ベッド。その上には少年と少女が横たわっていた。一目見て、さとりは危険だと感じた。
必死で出血を抑えようとしている常駐の医師に言う。
「京阪大学付属病院救急外来の氷野さとりです」
病状を聞きながら、さとりはてきぱきと治療機材の準備を始めた看護師に指示を出す。
狭い治療室の入り口に、数名の保安官の顔が見えた。その中に、見知った顔もあった。
「さと…氷野先生、必要なものはありますか」
「古藤さん、閉めないでいいので、絶対に入らないでください!」
ぴしゃりと言われて、古藤は力強く頷いた。すぐそばで呆然と治療室を覗き込む嶋本の頭を軽く叩いて。
「おい、嶋。誰も入れるなよ。氷野先生がいいって言うまでな」
「あ、はい…」
嶋本の声に、さとりは首だけ振り返って嶋本を見るけれど。
それはいつも嶋本に見せる笑顔のさとりではなく。



医師の、氷野さとりだった。



「……も安定してます」
「うん。これなら運べそうだね。出血量は?」
「問題ないです」
「おっけ」
さとりは安堵の溜息とともに、穏やかに言った。
「病院に搬送しましょう」



観音開きの扉が開かれて、少年を乗せたストレッチャーが運び込まれる。
付き添いに乗り込む看護師がヘリのモーター音に負けないようにと大声で叫んだ。
「氷野先生、じゃあ」
「酸素フォワードに気をつけてね!」
さとりがひらひらと手を振って。
五十嵐機長が操縦するヘリは、軽々と空に舞い上がった。
重症患者を二人一気に運ぶのは危険だった。
比較的軽症で出血も少なかった少年を先にヘリに乗せて、さとりと重症だった少女は次のヘリに乗り込むことにした。
応急処置が早かったおかげで、二人とも出血がひどかったけれどすぐに落ち着きを見せた。
悪かった顔色も落ち着いている。
さとりは少女の点滴と輸血のスピードを調整して、小さく溜息をついた。
この分なら大丈夫。
常駐の医師が声をかけた。
「少し休憩されてください。うちの食堂でコーヒーでも…あ、嶋本くん。氷野先生に食堂でコーヒーでも」
ちょうど入り口で顔を覗かせた保安官をつかまえただけだったが、それは嶋本で。
嶋本は黙って頷いて、さとりを誘導した。



「う〜ん、おいしいね」
いつものほややんとしたさとりだった。
嶋本はぼそりと言う。
「インスタントのコーヒーやで?」
「ん? でも、進次がくれたコーヒーだもん。おいしいに決まってる」
こういう悶絶するほど嬉しい惚気をさらりと言うさとりが、大好きだった。
今でも、好きだ。
だが…今日見たさとりは?
「さとり」
「ん?」
「あんな…」
嶋本が口を開こうとしたとき、頭にずしりと重さを感じた。続いたのは、古藤の声だった。
「なんや、治療室行ったら、こっちでコーヒーしばきに行ったって聞いて」
「嘉治にいちゃん」
さとりの言葉に、古藤は苦笑する。
「さっきは古藤さんで、今はそっちかい」
「あ〜、だって仕事、でしょ?」
多分、進次がいてもおんなじように『嶋本さん』って言うてると思うよ?
暖かいコーヒーの湯気を感じながらさとりも苦笑する。
それが『仕事』だ。
たとえどんな親しいものであっても、仕事中は呼び方にも気をつける。
それが最低限のマナーだ、とさとりは思っているから。
まして、そこに「他人」がいるなら。
それが『仕事』なのだから。
さとりの言葉に古藤は微笑しながら、嶋本は渋々頷いた。




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